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◇◇◇
「アレ、光佐九段ではないですか?十段戦の初日って明日じゃなかったですか?あ、昨日の総一郎九段の布石でも?」
坂田十段もさっき事務で貰っていましたよ。十段戦も碁聖戦も若僧には渡さんと意気込んでましたから。そうそう、息子さんの綾人四段も今日も晴信五段と一緒に子供囲碁の師範をしてくださってて、ホント親の背中を見て育つとはアレのことですね♪晴信五段も総一郎九段に似て女性陣には大人気ですし、もし、親子で手合いなどが当たった日はもう殺到しそうですよ。ああ、光佐九段も相変わらず、老若男女殺しで問い合わせが殺到中です♪コレからも、ビシビシと打ってバンバンとテレビに映っちゃって下さい♪
───などと実に元気よく、ふてぶてしくも失礼な物言いをするこの男は館長である。
彼の名は、橘昌永。橘朱美の義兄で、朱美の旦那の姉の旦那である。養子縁組ではなく、橘家が橘家に嫁いだなんともややこしい家系だ。
ソレは兎も角、なんて饒舌なんだろうとなかば感心しながら聞いていた日高に、ソレまで延延としゃべっていた昌永は突然言った。
「で、この愛らしいお嬢ちゃんは外弟子かなんかですか?」
名前を知らないからそう言う呼びかけになるのだろうが、この愛らしいお嬢ちゃんと言うのは流石に頂けなかった。
男です、と日高は反射的に怒鳴り返して、慌てて手で口を押さえる。
しまった。できるだけ目立たないように光佐さんの後ろに隠れていたのに。せっかく、ココまで悪目立ちしてなかったのに。どうしよう、この儘だったら、光佐さんにたくさん迷惑をかけちゃう…………っ!!
と、胸の中で渦巻いていた感情が大いに高ぶったら酷く悲しくなって、じわじわと涙が込みあげてくる日高に、光佐は実に元気があって宜しいと頭を撫でてきた。
「おや、コレは、とんだ失礼を。とても愛らしいからお嬢ちゃんだと思ってしまいました」
「………イイエ、オレこそ、怒鳴り返してしまって、ゴメンなさい」
涙目で、醜態を晒してしまったことを頭を深々く下げて謝ると、昌永の方が驚いて謝るのは私の方ですよと光佐に続いて頭を撫でられる。
「で、……………君は?」
またお嬢ちゃんと言いそうになった昌永が一旦言葉を止めて訊ねると、光佐はからからと笑った。
「昌永、私の息子の友人だよ。今日は晴信くんに用があってね、ちょっと顔を覗かせただけなんだ」
日高が余りにもおろおろするモノだから、助け船をついだしてしまう。蒼汰にはない愛くるしさがあって、もし、子宝に恵まれていたらこんな息子が生まれて欲しいと願う光佐だった。
そう、蒼汰は光佐の息子ではない。
光佐の実兄、智嗣の子である。
病弱だった義姉、正恵は蒼汰を産むと直ぐに亡くなってしまった。ソレを追うように智嗣も事故にあい、帰らぬ人となってしまった。
そして、正恵の親族は彼女より先に他界をしており、蒼汰を引き取るのは本願寺家しかなかったのだ。幸いにも光佐の妻、楓も蒼汰のことを甚く気に入っていて、養子縁組を率先して引き受けてくれたのだ。
蒼汰もそのことは薄々と気がついているようだったが、ソレを口にしないのは楓のタメなのだろう。
我が子以上に愛情を注いでくれ、我が子以上に心配して叱ってくれるのだ。
そんな彼女に母ではないでしょうとは口が裂けても言えない。
光佐も彼を甘やかすことなく、我が子のように厳しく優しく接した。彼が誰の子で、何処の家の子なのかを示してあげるように。
「ああ、そうだったんですか?蒼汰くんのお友達なら滅法強いでしょうね♪」
昌永が、蒼汰のことを知っているのは彼の実父である智嗣の友人で、その好敵同士だったからだ。だから、智嗣が在世時はよく本願寺家にで入りしていた。
その時には既に、蒼汰の腕はかなりのモノだったと記憶している。
将来の夢がサッカー選手だと光佐から聞いたときは酷く残念がっていた。
だが、智嗣が昔、サッカー選手に憧れていたことを思い出したようで、やはり蛙の子は蛙だと思ったようである。
日高はブンブンと首を横に大きく振った。
「………そ、そんなことない………です………」
謙遜でもないのに昌永は若いのに健気で宜しいと喜ぶ。
昌永にも甚く気に入られたが、日高は喜ぶにも喜べない。コレはなにがなんでも早く蒼汰と仲直りをしないといけないと追い込められるのであった。
光佐は相変わらず奥ゆかしいと日高の頭を優しく撫でて、昌永を見る。
「そうそう、晴信くんに用でしたよね♪私が呼んできますよ。このまま教室の中に入ると大変なことになりますからね♪」
個別の閲覧室で待ってて下さいと、軽やかに去っていく。光佐は昌永の申し出を受けるようで日高を見た。日高は顔を真っ赤にして、受け答えができなかったことを羞じらいでいるようであった。
「こっちだ、日高くん」
やけに硬い声で日高を促し、光佐はその背中に腕を廻すと昌永が向かった方とはまったく反対の方に歩きだす。
「昌永にココで会わなかったら気がつかないままだったよ」
ココで昌永に会ったことが良かったような言い草に、日高は真っ青な顔になる。何か粗相をしでかしたのかと思ったら、自分の服装から言動までが全て粗相だったと思ってしまったのだろう。
だが、そんな日高に光佐は優しく微笑んだ。
「すまなかったね。私の軽率な行動で日高くんを不愉快な思いにさせるところだった」
「………えっ?」
日高は一瞬で固まった。不愉快?と首を傾げながらもなんて煌びやかな笑顔なんだと光佐の笑顔に引き込まれる。そして、ソレが自分だけに向けられていると考えただけで鼻血がでそうだった。このまま死んでも悔いがないと思うほど幸せで、粗相がどうだったことも些細なことになってしまっていた。
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