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続 親知らず 10
広瀬は頭を下げた。このたびはご愁傷さまですと小さい声で言う。
「お前は覚えてないだろうけど、この前倒れた時、母の診療所に行ったから、母とは、会ってるんだ。祖母は初めてだな。祖母も医者で、内科医。もう患者さん診ることはないけど、グループの理事会とか大事な会議にはでてる」
彼の母親と祖母を広瀬に紹介する口調は軽かった。
そして、東城は、同じ口調で続けて祖母に言った。「お祖母さん。こちらは、広瀬さん。広瀬彰也。俺の恋人で大事なパートナー」
広瀬は驚愕して東城をみた。こんな形で誰かに自分を紹介されたのは、はじめてだったのだ。だが、東城は、平然として、当たり前のようにしている。
市村の祖母は、わずかな時間逡巡していた。だが、すぐに気を取り直したのがわかった。
彼女は広瀬に手をのばし、右手を優しくにぎった。思っていたより暖かいやわらかな手だった。彼女は広瀬のことを驚きはしなかった。話には聞いていたのかもしれない。
だからって、急にこんな風に紹介するってことはない、と広瀬は思った。彼女は驚かなかったが、広瀬は驚き言葉を失った。
「広瀬さん、今日は、いらしてくださってありがとうございます」と彼女はいった。「市村も喜んでいると思います。ずっと弘一郎のこと気にかけていましたから」
広瀬は返事をすることができなかった。じっと、市村の祖母の手を見ていた。彼女は優しそうに広瀬の手をなだめるように軽く撫でた。
母親の方が東城に質問している。「広瀬さんは今日はどうなさるの?泊まられるのかしら?」
「もう帰るところ」と東城は答えた。
「そうなの?じゃあ、車を呼ぶわね」と東城の母が言った。そして、広瀬に「お忙しいと思うけれど、今度、ぜひ、うちにいらして。ゆっくりお話ししたいわ」と言った。
東城の母が手配した車は、タクシーではなく、お抱え運転手が運転する車だった。
黒塗りの高級車だ。東城と二人の女性に送られて広瀬がその車に乗り込むのを、何人かの親族がわざわざ玄関付近まで見に来ているのがわかった。広瀬が何者なのか見に来ているのだろうか。
「今日は、来てくれてありがとう」と車のドアまで来ていた東城が言った。
広瀬は車の中から彼にうなずいた。
だが、車がスタートすると後部座席に深く座りこみ目を閉じた。頭が混乱していた。広瀬に断ることもなく気軽に自分を恋人と紹介した東城。当然のようにしていた市村の祖母。優しそうな笑顔だった東城の母親。そして、玄関の近くで自分を見ていた冷たい視線。
気が付くと、車は東城のマンションに向かっていた。自分のアパートを告げてそちらに向かってもらってもよかったのだが、広瀬はそうしなかった。ひどく疲れて早く休みたかった。
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