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第28話 あーん

 次の日、僕は頑張って起きたけど、慶二はおはようと行ってきますのキスをさり気なく避けた。  口調はいつも通り淡々として会話は続くけど、少し距離を置いている。  まるで僕が、女装してる時みたいに。 「慶二……僕の事、嫌いになった?」  堪らなくなって、出掛けていく背中に問うと、甘やかな笑みが振り返った。 「誰がそんな事を言った? 愛してる、歩。十二時に迎えに来るから、平良にきちんとチェックして貰え」  そう言い残して、慶二は出て行った。  愛の言葉には、まだ慣れない。  頬を火照らせて、僕は慶二のいい鼻にファンデーションの匂いがつかないように、お風呂に入って念入りに顔を洗うのだった。     *    *    *  平良さんに、ショッピングデートで注文したオーダー品を出して貰う。  スーツと革靴だけじゃなく、ワイシャツもオーダーしたんだ。  既製品は丁度良い長さのがなくて袖が少しだぶついたんだけど、オーダー品はやっぱりしっくりくる。  なんて事ないワイシャツなんだけど、その絶妙のフィット感に、思わずスタンドミラーで背中を映して浮かれてしまう。 「歩様。カフスボタンでございます」  ジュエリーボックスを開けて渡されたのは、真っ黒な宝石で、マットにツヤツヤと光ってた。 「平良さん、これ、何て石ですか?」 「オニキスでございます。『着実に目標を実現させる為、安定した方向に導いてくれる』パワーストーンとして、ビジネスや正装にお使いになる方が、多ございます」 「ふぅん。真っ黒で、格好良いですね」  四角くカットされた男らしさに、僕は掌にそれを乗せて、ウットリと見入る。 「これ、何処につけるんですか? 僕でもつけられます?」  カフスボタンなんて、何となく聞いた事はあったけど、実際に見た事はない。  平良さんは一礼して、僕の掌の上から四角を取った。 「失礼致します」  袖口に、合計四つのオニキスが収まる。  僕はそれも、鏡に映して色んな角度から眺めて、ご満悦だった。 「歩様。お楽しみの所申し訳ございませんが、間もなく十一時四十五分でございます。小鳥遊では、十五分前行動というのが徹底されておりまして」 「あ、もう、そんな時間ですか?」  大変! 慶二にグズだって思われちゃう!  僕は素早く、ネクタイを締めた。渡された、グレー地に細かい何かのロゴが散りばめられたものをつけたんだけど、何気なく裏返したら、グッチって書いてあった。  汚せない……! 服着ただけで緊張しちゃうから、もうブランドは確認しない事にした。  平良さんが広げてくれているジャケットに、腕を通す。 「ありが……」 「あ、お待ちを」  正面に立って、平良さんはジャケットの肩の辺りの僅かなごわつきと、曲がったネクタイを直してくれる。 「出来上がりでございます。何処から見ても、立派な紳士でございますよ、歩様」  僕は照れ隠しに謙遜する。 「平良さんのお陰です。ありがとう」 「慶二様と並んで歩いても、対等なパートナーに見えますな」  慶二とは八歳違いだったから、僕が普段着を着てスーツの隣に並ぶと、学生にしか見えないだろうな、っていうのがちょっとした悩みだった。  それが、久しぶりのスーツ、それもフルオーダーに、テンションが上がる。  ――ヴィン……。  微かな音だけど、聞き分けられるようになった。エレベーターが、最上階に着いた音だった。 「おかえり、慶二! 見て見て!」  僕は腕を広げて、ダークグレー地にライトブルーの細かいストライプの入った、オーダースーツを見せびらかす。  くるりと一回転すると、目尻に笑い皺が刻まれた。  あ、それ、好き。 「歩はスタイルが良いから、シンプルなスーツが似合うな」 「慶二だって」 「俺の事はいい。今日のランチは、歩の為の時間だ。楽しんでくれ」 「う? うん」     *    *    *  久しぶりに平良さんの運転で、慶二と二人で出かける。 「何処に行くの?」 「渋谷だ」 「えっ、渋谷?」  何か意外。慶二くらいの歳になったら、渋谷でランチなんかしなさそう。  僕も渋谷なんて洒落たとこ、必要がないから滅多に行かない。 「あ、僕の為?」 「ああ。話題のパンケーキ店だ」 「でも渋谷で話題なんて、並んでない?」 「小鳥遊の人間が並んでる。ちゃんと前後の方に、入れ替わる事を了承して貰った」  う。小鳥遊パワーは、ちゃんと筋を通すんだな。  列の横に到着して僕らがロールスロイスから降りると、好奇心旺盛な若者たちの視線が、一斉に注がれた。  年齢層は、十代後半から、二十代前半。  店はビルの二階で、列は階段の上に続いてる。真新しい革靴をカツカツと鳴らしながら上って、執事さんたち二人と、入れ替わって列に加わった。 「楽しみだろう、歩」 「うん。僕、生クリーム大好き!」  店の前のポップには、パンケーキ三枚重ねに沢山のフルーツと、文字通り山のように生クリームが乗った『お勧め』が載っていた。  一番人気は『ベリーベリー』、二番目は『メロメロメロン』。  どっちも美味しそう。  それとは別に、店員さんがやってきて、全てのメニュー表が手渡される。 「うわぁ……」  その写真付きのメニューの豊富さに、僕は感動して唸る。 「全部美味しそう!」 「全部頼んでも良いんだぞ」 「あ、慶二! イエローカード」 「サッカーがどうかしたか?」 「普通は全種類なんて頼まない。一人一品頼んで、違う味が食べたかったら、また来るんだよ」 「ああ……敵わないな」  その時、僕らの番が来て、店内に通された。カラフルでポップな内装で、テーブルクロスやランチョンマット、コースターに食器まで、全部可愛くこだわってる。  日本の『カワイイ』文化はグローバルスタンダードのようで、何組か外国人旅行客も居た。  でも男女のカップルや女性同士ばかりで、男性同士、それもこんなフォーマルな格好の人は居なかったから、いわゆる『浮いてる』というやつになった。 「決まったか、歩」 「あの……」 「ん? 何だ、言ってみろ」  申し訳なさそうな前髪越しの上目遣いに、慶二が耳を澄ませて応えてくれる。 「『ベリーベリー』と『メロメロメロン』、ど~してもっ! 両方食べたいから、この二つをシェアしない?」  慶二の口角が、思わずといった風に上がる。 「勿論良いぞ。今日は、歩の為に来たんだから」 「ありがとう!」 「You’re welcome.」  スラッと返すのが、気障だけど嫌味じゃなくて、慶二には似合ってる。  格好良い……! なんて見とれてる内に、慶二はベルを鳴らして店員さんを呼び、オーダーを済ませた。  飲み物は、ホットティー。  並んでるお店だから、どんどん焼いてるらしくて、すぐに大皿が二枚、テーブルに運ばれてくる。 「うわぁ……」  僕は感動して、しばらく目を輝かせて眺めてた。生クリームが、山になってる。こんなの、テレビでしか見た事ない!  フォークを持って横からツンツンと突くと、生クリームの山がぷるるんと揺れた。 「凄い!」  慶二が拳で口元を押さえて、堪らないように噴き出す。 「歩。感動し過ぎだ。冷めない内に食え」 「あ、うん。あれ? 慶二は食べないの?」  ゆったりと長い脚を組んだ慶二は、ナイフやフォークに手を伸ばさない。 「お前から食べろ。シェアするんだからな」 「え……一緒に食べようよ。誰かと一緒に食べると、百倍、美味しいんだから」  また慶二は目元で笑んだ。  今日の慶二、よく笑う。笑った顔、好き。 「そうか。じゃあ、食べるか」  そう言って、ナイフとフォークを手にして、一口大にパンケーキを切る。 「ほら歩、あーん」 「へ?」  フォークが、口元に差し出されていた。  僕は悪い冗談だと思いながらも、頬が熱くなるのを止められない。 「な、何やってんだよ、慶二!」 「何って……『あーん』だが」 「ふざけるの、やめてよ!」  だけど慶二は、いつもの真顔に戻って言った。 「真剣だが? 夫婦なんだ、恥ずかしい事は何もないだろう」 「え、え?」  確かに慶二がこんな悪ふざけをするとは、考えにくい。でもただでさえ浮いてるのに、本気なら、もっと困っちゃう。 「恥ずかしい……」 「これくらいで恥ずかしがってちゃ、俺の妻は務まらないぞ?」  慶二は声をひそめるでもなく、淡々と話す。  隣の席の女の子二人組が、こそっと何か耳打ちした。  う……僕と慶二じゃつり合わないのは、分かってる。お店中が僕を笑ってる気がして、僕は泣きそうになって俯いた。 「お嬢さん」  えっ! 不意に、慶二が隣の女の子たちに声をかける。 「今、何と言ったか、私の妻に聞かせてやってくれませんか」  茶髪にリップグロスの光る今どきの女の子たちは、突然の慶二の声に浮かれてキャッと声を弾ませた。 「凄いイケメン同士のカップル、って話してたんです。あたしたちフリーだから、良いなあって」  え……僕はこれ以上ないくらい俯いた。 「実は新婚なんだけど、妻は極端に照れ屋でね。『あーん』さえも、させてくれないんだ」 「奥さん、そんな事、新婚の内しか出来ないんだから、レッツチャレンジ!」  キャアキャアと無責任に声が上がる。そのお陰で、本当に店の半分くらいの人が、僕らに注目する羽目になってしまった。  顔を僕の方に向けて、もう一度、真面目に慶二が言った。 「歩。あーん」  事の成り行きを見守って、「頑張って!」なんて声も聞こえてくる。  僕は、押しに弱い。  この状況なら、大人しく『あーん』されるか、お店を飛び出して二度と戻ってこない、の二択しか思い付かなかった。  貧乏生活の長かった僕は、食べ物を残して出て行くなんて失礼な事、出来ない。 「あ……あーん」  パクリ。僕は慶二のフォークからパンケーキを頬張った。  瞬間、小さな歓声と控えめな拍手があちこちでわく。外国人旅行客が、「So cute!」なんて話してるのも聞こえてきて、僕は穴があったら入りたいって気分がよーく分かった。  僕が食べた事で店内は落ち着いて、注目は逸れていった。  慶二はまだ少し照れる僕を促して、二人で『あーん』し合って食べた。  食べた事もない美味しいパンケーキだったけど、すっごく恥ずかしかった。 「歩、ついてるぞ」  僕の口の端に親指の腹を当てて生クリームを取ってくれると、慶二はそのままそれをペロリと舐めた。 「……!!」  何なんだよ慶二! 慶二って、ドSだったの!?

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