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第29話 電車

 ランチしてもう帰るかと思ったら、もう一箇所、寄る所があると慶二が言った。 「何処?」  僕はまだちょっと頬を赤らめて、拗ねたような声を出す。拗ねてる訳じゃないんだけど……恥ずかしさを思い出して、そうなっちゃう。 「着けば分かる」 「内緒?」 「まあな」  今日の慶二は、何だか強引だ。契約結婚を迫ったくらいだから、元々なのかもしれないけど。いつもに輪をかけてる。  初めはロールスロイスのソファみたいなだだっ広いシートと、オーダースーツをピシリと着こなすイケメンの慶二に緊張して、景色なんか見る余裕がなかった。  だけど今は、意外に雑多な渋谷の街並みと道行く人を眺めてる。  みんな、お洒落してるな……。ちょっと気後れしたけど、自分もフルオーダーのスーツを着ている事を思い出す。 「慶二」 「ん?」 「言ってなかった。沢山服と靴、ありがと。それから、スワロフスキーのピカルくんも。凄く嬉しかった」 「どうした、いきなり」  僕は、慶二の肩に頭を預けた。 「僕、母さんから『ありがとう』と『ごめんなさい』は必ず言うように、って育てられたんだ。色んな事がいっぺんに起こって、言うの、すっかり忘れてた。ありがと、慶二」 「そうか。素晴らしい教育だ」  僕の頭を肩と頬で挟むように身が寄せられ、梳くように髪を撫でられる。  顎を人差し指で掬い上げられ、上向かされた。  ロールスロイスの窓には、スモークフィルム。  僕は迷わず、瞼を閉じた。 「おっと。平良、この辺で降ろしてくれ」 『畏まりました』  だけど期待した温もりは訪れなくて、僕はちょっとガッカリして瞳を開く。    平良さんがドアを開けてくれて、慶二が先に立って降り、僕に掌を差し出す。  お姫様みたいにエスコートされて、僕はロールスロイスから降り立った。 「ここ……何処?」 「渋谷駅の近くだ」 「それでは慶二様、失礼致します」 「あれ、平良さん、行っちゃうんですか?」 「渋谷駅周辺は、駐車禁止の場所が多ございます。駐車場にて、お待ちしております」  平良さんは深々と一礼して、去っていった。 「電車に乗るの?」 「まさか。新幹線以外、乗った事がない」 「そうなんだ」 「歩」  慶二が、肘を折ってこちらに向けてくる。  え? 訳が分からない僕の手を掴んで、慶二が腕に捕まらせる。……あ! 腕を組むのか。 「慶二って……クールなんだと思ってた」  エスコートされて歩き出すと、すれ違う人の視線が痛い……ような気がする。気のせいだと思いたい。 「普段はな。今日は、特別だ。顔を上げて歩け、歩。人が俺たちを見るのは、絵になってるからだ」  う。見透かされてる。 「そ、そうなのかな」 「ああ。自信を持て」  少し歩くと、見た事があるような広場に出た。 「あ……ハチ公口?」  肝心のハチ公像は小さくて見えないけど、黒山の人だかりで分かる。 「そうだ。着いた、歩。さっきの続きをしよう」 「え……?」  慶二はハチ公像の方には行かず、スクランブル交差点の方に足を向けた。ちょうど、歩行者用信号が青になる。何百……いや、何千人もの人が行き交う。  僕たちも混じって、進んでいった。  何処に行くんだろう、と思いながら引っ張られていたら、不意に慶二が交差点の真ん中で立ち止まった。 「愛してる。歩」 「んんっ!?」  向かい合ったと思ったら、頬を両手で包まれて、慶二の唇が下りてきた。  今度は気のせいじゃなく、四方八方から来る人の視線が、一様にチラリと僕たちを眺めていく。  「んっ! ん!!」  僕は何とか逃れようとしたけど、深く合わされた唇の中で慶二の器用な舌が暴れて、次第に抗議が喘ぎに変わっていく。  五日ぶり? 一週間ぶり? 出張と風邪と女装で、満たされていなかったのも手伝って、気付いたら僕は慶二の髪を掴んでた。  薄らと瞳を開けると、熱っぽい慶二のそれと合う。僕らだけがスローモーションで、周りは早送りみたいにぶれて見えた。 「んっ……は」  片手が優しく僕の前髪を真ん中から分けて撫で付け、拳を軽く握った指の甲で、上気する頬を撫でてくれる。僕の好きな仕草。  最後に一度、首を傾けて食まれ、上下に揺さぶるように荒っぽく触れ合った。 「歩、走れ」 「え」 「信号が変わる」  咄嗟に動けない僕を、慶二がひょいっと抱き上げて走り出す。バウンドするものだから、僕は恐くて必死に慶二の首根っこにしがみついた。  ハチ公口の歩道に戻って下ろされた途端、スクランブル交差点は様変わりして、車でいっぱいになる。  あ……僕ら、こんなとこでキスしたんだ。  僕は多分、これ以上ないというほど、真っ赤になってる事だろう。じわりと涙さえ滲んだ。 「慶二……!」  甘く握った両拳で、慶二の逞しい胸に縋ってポカポカとぶつ。  僕がくしゃくしゃにした横髪を、両手でピタリと撫で付けながら、慶二は笑った。  わ……こんな全開の笑顔、初めて見たかも。思わず見とれる僕に、慶二が長身を折って耳元で囁く。 「お前は、人が羨むほど綺麗だ。少々荒療治だったが、少しは自信がついただろう?」  僕の好きな落ち着いたバリトンが、真実を明かす。  強引だと思ったのは、僕に勇気を出させる為。情熱的だと思ったのは、僕に愛を伝える為。 「慶二……」  くすぐったくて、耳を押さえながらも、その言動に感極まる。   「あり、がと」  でもやっぱりちょっと恥ずかしかったから、ぽつりと呟く。  僕はこの所、慶二に与えられてばかりだ。何か、お返しがしたい。不意にそう思った。 「……そうだ。お礼に、良い景色、見せてあげる」 「ん? 景色?」 「うん。来て」  慶二の掌をきゅっと握って歩き出す。行き先は、渋谷駅ハチ公口。  僕は一駅分の切符を買って、慶二に渡した。 「これ、ここに入れて。出てきたのを、取るの忘れないで」 「電車に乗るのか?」 「うん。でも、ただ乗るだけじゃない」  僕はまた手を繋いで、慶二をホームの隅まで連れていった。   「これは……山手線というやつか?」 「知ってるんだね、慶二」 「知識としてはな」  やがて恵比寿方面から、電車が入ってくる。僕らは、原宿方面行きに乗った。 「ほら、見て慶二。これが電車の先頭の景色」 「なるほど。運転手が乗っているな」  運転手さんが窓から身を乗り出して、指差し確認しながら独特の声を出すのを、慶二は興味深そうに見ている。  やがて、電車が動き出した。  初めは、右手が緑で左手が密接して立つビル群だった。あっという間に、景色が加速して飛び去っていく。 「あ、慶二、桜」 「ああ……綺麗だな」  狂い咲きの桜が一本、満開だった。  車の高架を幾つかくぐると、すぐに原宿駅だ。  その頃には、出発した時とは逆に、左手がうっそうとした緑に覆われていた。この辺はあんまり来た事がないけど、明治神宮と関係があるのかな。  右手がホーム。    僕は子供の頃、電車に乗る時はいつも、先頭か最後尾だった。  指差し確認する運転手さんに張り合って声を上げて、苦笑されては、両親に窘められていた。  小学校の卒業文集に書いた『将来の夢』は、電車の運転手さん。  でも満員電車に揺られる内に、いつしかそんな夢さえ忘れていた。  大好きな人と先頭車両の景色を楽しんで、原宿駅のホームに降り立つ。  子供の頃の幸福感が蘇った。 「こんな景色は初めて見た。人に自慢出来る、貴重な経験だ。ありがとう、歩」 「どういたしまして」  そして平良さんに原宿駅まで迎えに来て貰って、僕らのランチデートは終わったのだった。

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