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第2話 契約事項第一条
一緒に会場を出て、『結婚契約書』を餌に釣り上げられた僕は、長さがトラックほどもあるんじゃないかと思える黒いロールスロイスに乗ってしまった。小鳥遊さんがレディーファーストでもするように、スマートに後部のドアを開けたから。
車内とは思えないほど滑らかに走る、広いシートに座ってゆったりと長い脚を組み、小鳥遊さんは僕を見詰めた。
「歩は、幾つだ?」
ネクタイまできっちり締めているのに、何だかその下の素肌を見透かされているような気がして、僕は居心地悪く身動ぐ。
「二十二……です」
「ですは要らない。俺の事は慶二と呼べ」
女性とは話せないけど、男性相手に負けん気が働いて、僕は思わず噛み付くように問い返した。
「慶二さんは、幾つなんですか」
「さんも要らない。二十九だ。歩、お前は頭の良いコだろう? 早く慣れろ」
つまり……タメ口きいて良いって事?
人さらいに遭ったような理不尽な道行きに、僕は疑問が頭の中に渦巻いて、質問責めにした。
「何で僕なの? 確かに同性婚はもう珍しくないけど、会ったばかりじゃないか。顔なんてろくに見えないし、性格だって知らない。僕じゃなきゃいけない理由が見付からない!」
慶二さん……慶二が、食ってかかる僕を、面白そうに瞳を眇めて眺める。
「ほほう……結婚の意思がある若い男なら誰でも良かったんだが……その性格はタイプだよ、歩」
スッと手が伸び長い前髪をかき上げられて、そのあまりの前触れのなさに、僕はビクッと震えて瞼を閉じた。
ゆっくりと……まるで愛撫みたいに、前髪を左右に流して、頬を指の甲で撫でられる。
僕は声が漏れそうになるのを、必死に堪えた。
「ああ、歩……何で顔を隠してるんだ? こんなに可愛らしい顔なのに」
瞬間、僕は爆発的に怒鳴った。
「可愛くなんかないっ!!」
恥じらいに火照っていた頬が、怒りに取って代わるのを見て、慶二はふと真剣な顔をした。
「おや。トラウマでもあったか。では、そういう事にしておこう」
言って、睨み付ける僕の視線をものともせず、元通りに前髪で顔を隠してくれる。
二十二年間の人生で、僕を「可愛い」と言った人は、ムキになればなるほど、面白がって「可愛い」を連発した。
こんな風に優しくされたのは、初めてだった。長い前髪の奥で、僕は動揺して押し黙る。
「気に入った。俺はお前が好きになった、歩」
「なっ……」
これが、お金持ちの大人の余裕ってヤツかな。そう思ってしまうような、素っ気なくも取れる告白だった。
「さあ、契約事項第一条だ。今日中に、俺と正式に結婚する事」
異次元ポケットから、婚姻届と万年筆が出てきて、テーブルに揃えられる。
慶二の名前も、証人の名前もすでに記入済みで、あとは僕が書く所だけだった。
「う……」
「裁判所に訴えても良いんだぞ。あれは、正式な契約書だ」
一瞬でも、優しい人かもなんて思った僕が馬鹿だった!
やっぱりこの人は、自分勝手で利己主義なんだ。
僕はやけくそ気味に、婚姻届の空欄を殴り書きで埋めていった。
「ん。良いコだ、歩。……平良 」
慶二が、『通話』と書かれたボタンを押して呼びかけると、仕切られた運転席のドアが開く音がして、後部のドアも開けられた。
「提出してきてくれ」
「畏まりました」
きっちりとした制服に制帽を被った六十代くらいの運転手さんが、婚姻届を受け取って、ドアを限りなく無音で閉めた。
チラッと見えた景色は、仕事で見慣れた都内の区役所だ。
車、止まってたんだ。気付かなかった。
少しあって、また運転席のドアの開く音がする。やっぱり閉まる音はしなくて。
慶二が再びボタンを押した。
「受理されたか?」
『は。つつがなく』
慶二が、腕時計を見た。
何気なく見てるけど、文字盤にびっしり、透明な宝石が散りばめられてる。ガラスじゃ……ないよね。
「二十三時十七分。一月三十日中に結婚成立だ」
『ご結婚おめでとうございます、慶二様』
「ああ。歩を送るぞ、平良」
『は』
短く言って、慶二は通話を切った。
「え?」
やけくそになっていた僕は、このままさらわれてしまうんだと、薄ぼんやりと覚悟してた。
「歩、独り暮らしか?」
「う、うん」
「帰りを心配する者は?」
「……姉ちゃんがいるけど、お互い独り暮らしだし……」
僕は言い淀んだ。その後ろめたさを逃さず、慶二の切れ長の目がキラリと光る。
「だし?」
僕は、嘘が苦手だ。上手い誤魔化しも思い付かず、やがて白状してしまった。
「……婚活パーティ申し込んだの、姉ちゃんだし……お持ち帰りしてこい、幸運を祈るって言われたから、心配しない……」
「そうか。お持ち帰り出来なくて、残念だったな」
あんたがそれを言うか!
「取り敢えず、今日はゆっくり休め。いっぺんに色んな事があったから、疲れてるだろう」
それも、あんたが言うか……。
だけど確かに言われて初めて、僕は何だかドッと疲れて、前髪の奥で溜め息を吐いた。
突然ドアが開いて、僕はビックリして思わず慶二に飛び付く。
「到着致しました。歩様」
「あ……ありがとうございます」
「使用人にいちいち礼は不要だ、歩」
その物言いが、お金持ち特有の傲慢な気がして、僕は思わず見上げて小さく睨んだ。
「お礼は必要だよ。人間同士じゃないか!」
慶二はビックリ眼 に僕を映して、脚を組んだまま固まっていた。
「……そうか。ではこれから、礼を言うようにしよう」
強引で偉そうな慶二の鼻を明かしてやった気がして、僕はちょっと強気に唇を引き結んだ。
そのままの体勢でややあってから、慶二がポツリと呟く。
「……歩。俺をお持ち帰りする気か?」
「あっ!!」
肩に縋り付いて、間近に見詰め合っていた事に、ようやく気付く。
僕はパッと離れて、熱いものでも触ったように、左手で右手をさすった。
あ。まただ。慶二が良い人なんじゃないかと錯覚してしまう、優しい笑い皺が刻まれる。
「全く……俺だから、無事に帰してやれるんだぞ。他の男には、絶対にするなよ。お前はもう、俺の妻なんだから」
苦労を知らない綺麗な指の甲が、僕の頬を撫でる。
う……それ、くすぐったい。
僕は慌ててロールスロイスを降りて、アパートに向かって歩き出し……一つ忘れた事に気付いて、振り返った。
「……送ってくれて、ありがと! 馬鹿慶二!!」
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