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第19話 愛してる
部屋に入って、安心したら、急に震えがブルッときた。心も身体も麻痺してたけど、身体の芯まで冷え切ってるのを知る。
運転手さんの言った通り、脱衣所の籠に濡れた服を入れベッド脇に置いて、バスタブに熱いお湯を溜める。
身体を流して、お湯が溜まるのを待ちながら、バスタブに浸かる。じわじわと熱いお湯が上がってくるのが気持ちいい。
いてっ……。
そう言えば、割れた牛乳瓶の欠片を踏んだっけ。そんな所も麻痺していた。
濡れた靴を履いていたから、足がふやけてる。親指の裏にピリッと痛む所があって、僕は注意深く探った。
良かった。欠片は入ってないみたい。後で絆創膏を貰って、貼っておけば大丈夫だろう。
そうこうしてる内に、お湯が脇の下辺りまで溜まった。
――ブクブクブク……。
考え事をする時の癖で、口元までお湯に浸かって空気を漏らす。
お行儀が悪いのは分かってるけど、やめられない。
慶二が本当に出張に行ってるのは分かったけど、慎がスペアキーを持ってたのは事実だ。
凄く……綺麗なコだったな。確かに慎に比べたら、僕なんて平凡なおじさんだ。
『気に入った。俺はお前が好きになった、歩』
落ち着いたバリトンが蘇る。
ホントに? こんなに自信がなくて、まともに世渡り出来なくて、二十二のおじさんの僕が? 今すぐ、慶二の口から訊きたいよ。
……呆れた。僕、我が儘でもあったんだ。
謙虚に生きてきたつもりだけど、ちょっと「好き」って言われただけで、こんなに思い上がりだったなんて。
そこまで考えて、異変に気付く。
寒い。確かに熱いお湯に浸かってる筈なのに、カタカタと歯の根が合わない。
「う……ケホケホッ」
お腹の底から咳がこみ上げてきて、息を吸うのもままならなくなる。
これは……!
僕は子供の頃、喘息の発作持ちだった。
危機感がわいて、僕はお風呂から上がって何とかバスローブを引っかける。
「ゲホッゲッホッ、グホッ、ゲッ……グェーッ」
咳が止まらなくて、胃の中身が逆流する。白大理石の床に吐いて、ベッドに倒れ込んだ所までで、僕の意識はぷっつりと途絶えた。
* * *
「ゲホゲホッ……」
咳をしている自分に気付いて、目を覚ます。息をする度に、ヒューヒューと呼吸音が響いた。
……僕、どうしたんだっけ。
苦しくて起き上がれずに、眼球だけをゆっくりと巡らせて、周りを確認した。
遮光カーテンが引かれて部屋の中は暗く、ヘッドボードのランプだけが小さく点けられている。
左手に違和感を感じて見てみると、頭上のパックからチューブが伸びて、点滴されていた。
白いパジャマを着ている。
十畳以上の広い室内には、見た事のある猫足の机。
あれ……慶二のマンション?
チクリと心臓に痛みが差し込む。
僕は……創さんの家に居た筈じゃ……。
「お目覚めになられましたか、歩様」
「! 平良さ……ゲホッ」
ビックリして大声を出すと、むせてしまう。枕元に、平良さんが座ってた。
「無理にお声を出さずに、歩様。咳が出て、苦しゅうございましょう」
「ケホ」
僕は何とか頷く。
「眠っていらっしゃるのかと、十四時までお声かけを控えさせて頂きましたが、応答がございませんので、失礼ながらお部屋に上がらせて頂きました。キッチンのご様子から何かあったのは分かりましたが、私の力量不足で歩様を発見出来ず……」
ううん。平良さんのせいじゃないよ。
そう思ったけど、咳が出るので黙って首を横に振る。
「やむなく、慶二様にご連絡させて頂きました。慶二様が歩様にお渡しになった『お守り』には、誘拐対策用のGPS発信器が入っておりますので、位置を割り出し、お迎えに上がりました」
じゃあ……僕が創さんの家に居たって事は、慶二にバレたのかな。
思わず、眉尻が悲しげな角度に下がってしまう。
平良さんが、僕の心を読んだみたいに穏やかに言った。
「歩様が何処にいらっしゃったかについては、私の独断で、道に迷っていらっしゃったとさせて頂きました。慶二様が、要らぬご心配をなさいますので」
良かった。露骨に顔がホッとしてたのか、平良さんの口元が僅かに緩む。
「平良めは、嘘吐きでございます。慶二様と歩様の為なら、どんな嘘も吐き通す老いぼれと、笑ってやってくださいませ」
僕は長い前髪をふるふると震わせて、また首を横に振った。
「歩様は、本当にお優しい方でございますな……」
そして、頬を引き締めて僕に言い含めた。
「間もなく、八時でございます。歩様は、一晩お眠りになっていらっしゃいました。時差で、オーストリアでは二十五時を回る頃でございます。慶二様が、ご心配して電話をかけていらっしゃるかと思いますが、歩様はお話になれませんので、平良めが代わりに出てようございますか?」
こくこくと頷く。
「余計な事は話しません、ご安心くださいませ。創様は、事情は歩様に訊くようにと仰ったので何も存じませんが、悪いようには致しません。歩様がこの寒空の雨の中、出ていらっしゃるほどですから、よほどの事でございましょう」
平良さんの優しさが嬉しくて、僕は口角を上げて微笑んだ。
――トゥルルルル……。
タイミングを計ったみたいに、サイドテーブルの上の携帯が鳴る。
僕は平良さんと目を合わせて頷いた。
失礼致します、と断って、平良さんが僕の携帯に出る。
「もしもし。平良でございます。歩様は喘息の発作がお出になって、お話し出来ませんので、僭越ながら代わりに取らせて頂きました。……はい。少々お待ちくださいませ」
平良さんは携帯を離し、僕の耳元にかざした。
「歩様はお話にならなくて結構なので、慶二様からお話があるそうです」
『もしもし、歩か?』
思わず口を開いて、喉の痛みにグ、と詰まる。
僕の好きなバリトンが、心配そうに気遣った。
『ああ、何も喋るな。ただ、俺の声を聞いてくれ』
見えないけど、コクリと頷いてしまう。
『歩。喘息持ちだったんだな。身体を大事にしてくれ。今すぐ帰りたいくらいだけど、大事な商談があるんだ。お前を養っていく為にも、今仕事を放り出しては帰れない。すまないが、分かってくれ。……愛してる』
ああ……僕、ホントに慶二が好きなんだ。
それなのに、慶二を信じてあげられなかった事に、慶二が「愛してる」と言ってくれた事に、目頭が熱くなる。
平良さんを見て、泣きそうな顔で何回も頷いた。
携帯を耳に当て、平良さんが応答する。
「もしもし、平良でございます。歩様は、何度も頷いてらっしゃいます。慶二様のお話に、感動してらっしゃるご様子でございます」
うっ。平良さん、鋭い。いや、僕が分かりやすいのかな。
「……はい。畏まりました。……はい、失礼致します」
携帯をサイドテーブルに置き、平良さんが何処か嬉しそうにも見える、ポーカーフェイスで言った。
「慶二様のお言いつけで、僭越ながらこの平良めが、歩様のお世話をさせて頂きます。歩様、お嫌いなものやアレルギーがございましたら、ここにお書きになってください」
筆談用の、小さなホワイトボードが差し出された。
凄い。何でもあるんだな。それとも、揃えてくれたのかな。
そんな風に思いながら、僕は首を横に振る。
「それはようございました。では、卵とカニ身のお粥を作らせて頂きます」
堪えきれないように、平良さんが付け加えて席を立った。
「慶二様がどなたかをこんなにご心配なさるなんて、お母様以来、初めてでございますよ」
その言葉に、僕はポンと赤くなる。
平良さんは小さく頷いて、部屋を出ていった。
は……恥ずかしい。
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