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第37話
誰かを好きになる。
それは一方で誰かを縛り、誰かに縛られることでもあって。
愛情なんて大人びたものをよく知らないまま、オレは捕らわれていた。
気づいたら、霧雨の中を潜ってきたかのように。
この身も心も、雅さんに心地よく濡らされていたのだ。
日が落ちて、夜の匂いに夕暮れが染まっていく頃。
俺と雅さんは、畳の上に正座をして同じ盃を手に取っていた。
行燈の薄明かりだけが部屋を照らしていて、その灯りは合わせた着物の袂から覗く雅さんの鎖骨を艶めかしく染め上げていた。
ぼうっとしてしまった自分に慌てて気づいて、俺は盃を握り締めた。
雅さんが、徳利を手に持ち自分の持つ盃へ透明な液体を注ぐ。中から、桜の花びらが2、3枚躍り出て湖面に浮かんだ。
同じように、俺の盃にも雅さんが注いでくれる。麹の匂いと共に、薄紅が水面を泳ぐ。
「…さて」
雅さんが口元をふわりと緩める。
どきどきと高鳴っていく心臓の音がこの静けさでは隠せない気がして、俺はふいに怖くなってしまう。
けれど、そんな不安を杞憂に変えてしまうゆったりした声で雅さんは言った。
「儂の呪術だけでは心許ないからの。
念のため、"契り"を交わそうとしようかえ」
丹塗りの盃を持ち上げ、俺の盃にかつんと合わせる。
それから、一気に盃に口をつけ液体を飲み干してしまった。
喉仏が生き物のように動くのを呼吸も忘れて見蕩れたのち、俺も雅さんに倣って透明な液体を口に含んだ。
喉の奥が炎で炙られたように焼け付いて、
それから視界がぼうっと霞んだ。
甘い味が喉元をくぐり抜けるのを感じながら、初めての感覚に戸惑いながらもなんとか全て飲み干す。
胃の真ん中がどくどくと脈打つ証拠に、見ると盃は空になっていた。
ほっとして肩をすくめると、雅さんの笑い声が降ってきた。
「ちと刺激が強すぎたかの。すまぬのう、こういったやり方なんじゃ」
「あ…いえ、大丈夫です…」
ふわふわとした心地のまま浅葱色の両目を見返す。
体に力が入らない。
文字通り、あっけなく骨抜きになってしまった自分を自覚するも抗うことは出来ない。
それから、更に俺は心地良さの沼に落とされていった。
「んん…っ…」
雅さんの指が俺の顎を掴んだかと思うと、
体温の高い舌が口の中を舐っていく。
酔いどれていた脳が、感覚を研ぎ澄ませるせいで体中がぞくぞくと震え出す。
舌の上に残った液体を丁寧に舐めとる度に、
唾液と粘膜の絡み合う音が響く。
下半身が火照ってゆく俺を駆り立てるように、雅さんは俺を強く抱きしめて指を絡めてくる。
こんなことは、初めてなのに。
誰かと体験したことも想像したことも無かったのに。
雅さんの香りに、またぼうっと心ごと酔わされてしまう。
受け入れるほど、夢中になってしまう。
痺れるくらいの甘い刺激をどれだけ貪っていただろうか。
ようやく、雅さんの唇が俺のものと分かたれた頃にはもう言葉も出せなくなっていた。
「ぁ…はあ、はあっ…」
口元を唾液の細い糸が伝っていく。
拭う気力もないまま、俺は陸に上がったかのように酸素を必死に取り込んだ。
その様子を目を細めて雅さんは見守ってくれた。
「頑張ったのう。偉い偉いぞ、音羽」
「お酒って…あんなに熱いんですね……びっくりしました」
子守りをされるように、体ごと胸へ引き寄せられ頭を撫でられる。
「子供には飲ませてはならぬのじゃがな…例外もあるからの。
しかし…」
「?」
逡巡した素振りが気になって、俺は雅さんを見上げる。
「音羽の舌はたいそう可愛かったのう。儂、これはクセになってしまいそうじゃ」
「…!!」
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