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第5話
「ひとの仔が迷い込むとは珍しい。…お主、何処を目印に此処まで辿り着いた?」
低く、やけに色っぽい声音だった。
質問をされているのに、俺はすぐに答えられなかった。
ゆったりとした、着物姿の彼とは反対に俺は掠れかけた声しか出せない。
「俺は……庭の、染井吉野に桜餅をお供えしていただけで…なにも……」
とても、らしくないのが頭では分かっているのに。
上手く言葉を返せない。藤色に溶け込んだ彼から、目は離せないのに。
舌足らずとしか思えない俺の答えに、彼はほう、とさして驚く様子もなく顎に手を添えた。
それから、ゆっくりと草履を鳴らして近付いてきた。
魔法をかけるような、絵草子の冒頭にあるような言葉を吐き出しながら。
「此処は、人の世またはこの世と呼ばれる場所と、あの世の境いにある都よ。
お主が迷い込んでしまったのは、美しい縁によるもの…と、言っておこうぞ。
夢妖京。儂等は此処をそう呼んでおる」
「むよう、きょう…?」
夢の中にいる心地で、鸚鵡返しをする俺がいた。
そんな俺に、ふふふと笑いかけると目の前の彼は、細長い指で濡れた頬にふれてきた。
「儂の名前は杁妻 雅 。
ひとの仔、お主の名前も聞かせておくれ?」
歌うように軽やかに、何が楽しいのか愉快そうに彼は問うた。
霧けぶる藤の花が咲き乱れた景色の中。雨の音が一番響いていた。
これが、雅さんと俺の出逢いだった。
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