71 / 91
繭の中-34-
目を開けると視界は青一色だった。
ぼやける焦点を合わせるようにアークは重い瞼を瞬《しばた》かせると曇っていた青色が鮮明になり、目の前にあるのが金糸の模様の入った青い布地だと分かる。
頬を撫でる風に合わせ金糸の模様が大きく揺れるのに違和感を覚え顔を上げれば、眼前には見覚えの無い景色があった。
見事な細工の施されたバルコニーからは見渡す限り青空と緑豊かな庭が広がっているが、良く見れば空や庭のあちらこちらが欠けており、見ている景色が術式で作られた映像だと分かる。
状況分からず、立ち上がろうとして初めて自分が椅子に固定され拘束されていると気付いた。
左右それぞれの肘掛に括られた腕も背もたれにベルトで固定された胴や腰もビクともしない。
現状把握の為に首を動かして見回すが、自分が座っているのがただの椅子ではなく大きな車輪の付いた車椅子である事と、見た事も無い青いドレスを着て長い金髪のカツラを被らされている事しか分からなかった。
――ここは何処だ。
――私は何故こんな格好をしているんだ?
ハッキリしない記憶を手繰り寄せると。
――確か、魔術師学校に防御壁が現れ、応援を呼びに剣術師学校へ行って……。
徐々に気を失う直前の出来事を思い出され。
――足元の闇に呑み込まれて……。
最後に見た影の正体が鮮明に浮かんだ。
「目が覚めたんだね」
突如背後からかけられた男の声に身構えると気配はゆっくりと近付き、アークの座る椅子の正面に回った。
「思った通り、青が良く似合うね」
アークが被るカツラの髪を一房すくうと、男はそっと口付ける。
「そんな怖い顔をしていたら折角の美人が台無しだよ。|ア《・》|ン《・》|ジ《・》|ュ《・》」
何時もと変わらない優しい笑顔を浮かべるアレイスターに問質そうと口を開くが、声帯が術式で麻痺させられているのか声は出ず、空気が漏れ出るだけだった。
「こんなところに一人にしていたから拗ねているのかな? アンジュのためにお茶の準備をしていたんだ。許してくれ」
アレイスターは左右の車輪の止め具を外した。
「それじゃ散歩がてら庭でお茶をしようか」
車椅子が反転されるとバルコニーから室内へと視界が変わり、中に運ばれて行く。
照明器具で照らされた部屋は明るく、一見して幼い少女のものだとわかる背の低い桃色の家具や人形やぬいぐるみで溢れていた。
それらを通り過ぎ、重厚な扉を潜り抜けると一変して冷たく薄暗い廊下となった。
壁には幾つもの肖像画が飾られており、威厳を纏った男性や若く美しい女性が一人ずつ描かれたもの。男性と女性、それに七歳前後の少年とそれより幾つか年下の少女が四人仲良く描かれたものがあった。
天井の高さや壁の細工は貴族の屋敷というより王宮に近い作りだが、美術品はおろか天井に吊るされていただろうシャンデリアも鎖だけを残し外されていた。
廊下を進んでいくと殺風景な玄関ホールへと辿り着き、アレイスターが合図をすると百合の紋章が刻まれた一際大きな扉は開かれた。
「今日は本当にいい天気だね」
偽りの太陽に照らされた玄関を下り、キレイに刈り込まれた植木が立ち並ぶ舗装路を進んで行けばバラのアーチが現れる。
生花の匂いのしないそれを潜れば一面をバラで囲まれた庭に辿り着いた。
中央に設置されたテーブルにはアレイスターが用意したらしいティーセットが置かれており、アークは車椅子のままテーブルに付けられた。
「すぐに淹れてあげるから待っててくれ」
アレイスターがポットへ湯を注ぐと乾いた土の臭いだけの空間に温かく優しい紅茶の匂いが立ち込めた。
茶葉を蒸らしている間にアレイスターは箱から焼き菓子を取り出して更に飾り付けるとアークの前に置き、続いて紅茶をカップに注いだ。
「アンジュのお気に入りのローズマリーだよ。冷めないうちにどうぞ」
差し出されるが、悠長に茶を飲む気にはなれない。
第一にこの状態では何も出来ないときつく睨みつけていると、その事に気付いたアレイスターは「ごめんごめん」と右手の拘束だけを解いた。
アークは自由となった右手を動かし声を出せるようにしろとジェスチャーで訴えるが、困ったというように眉根を寄せるだけで動こうとしないアレイスターに業を煮やし、目の前のカップを取るとそれを投げ付けた。
「何をするんだアンジュ。お前が火傷したらどうする」
慌てて跪き火傷の有無を確かめようとするアレイスターの胸倉を掴み、睨む。
「分かった。声が出るようにするからそんな顔をしないでくれ」
アークが掴んでいた胸倉を離すと、アレイスターは乱れた胸元を軽く直す。
「但し、術式を紡いだりしないでくれよ。ここはとても不安定な場所だからね。何がどう作用するか分からないんだ。いいね?」
頷いて見せるとアレイスターはアークの喉へ指先を当て流れるような動きで術式を解除した。
「もういいよ」
アレイスターの手が離れると同時にアークは怒鳴り付けた。
「一体、これは何の真似ですか!?」
「アンジュ。いきなり大きな声を出しては喉を痛めてしまうよ」
「私はアンジュじゃありません!」
「うん。そうだね」
あっさりと認められアークは肩透かしを食らい困惑する。
「なら……」
「君の髪と瞳の色が妹の…アンジェリカの色と同じでね」
「何の…話ですか? アンジェリカって……」
「十年前に死んだ僕の妹の名前だ」
「死んだ……?」
アレイスターは一人っ子だと聞いていたアークは眉を顰め伺い見るが、優しい微笑みを返されるだけだった。
「その話は少し長くなるから、お茶を飲みながらにしよう」
新しいカップをトレイから出すと茶を注ぎアークの前へ置くと続けて自分の分を用意し、アークの正面の席に座った。
優雅な所作でカップに口付けるアレイスターを黙って見ていると、その視線に気付いたアレイスターは微かに笑った。
「ここはヴェグル国から遠く離れた小国でね。僕はこの国の王子だったんだ」
建物内にあった肖像画の少年に面影を見ていたアークはアレイスターの告白に疑問を持つ事無く受け入れた。
「資源は少なかったが気候は穏やかで魔物の襲撃も少なく、国民は皆働き者で優れた術師も多くとても栄えていたんだ。他国との争いも無く僕が死ぬまで、死んでからもこの国は未来永劫変わらないと子供心に信じていたよ」
馬鹿な夢を見ていた自分を嘲笑するかのようにアレイスターは口角を上げる。
「あの赤い魔女がやってくるまでは……」
赤い魔女――
その呼び名に合致する人間を一人しか知らないアークはヴェロニカをの姿を思い浮かべるが、嫌な予感を打ち消すようにその姿を頭から消す。
「何故この国を選んだのかも分からなかった。突然だったんだ。対魔王用に開発した魔道書を持ってしてもあの魔女を止める事は出来ず、たった二日だ。たった二日でこの国の全てが業火に包まれ灰となった」
たった一人で国一つを二日間で滅ぼす事は不可能である。
例えそれが魔法使いと呼ばれる人間でもだ。
「先輩は何か記憶違いをしているんじゃないんですか。一人で国を滅ぼすなんて無理です」
「無理? 現にあの魔女は遣って退けたよ」
「魔女は居合わせただけで他国からの攻撃にあったとか……」
「君があの魔女を庇いたい気持ちは分からないでもないが、燃えるような赤毛も冷たく光る金色の瞳も見間違えはしないし、あの場には自国の兵しかいなかった」
身体的特徴とアレイスターの口調から赤い魔女が先程思い浮かべたその人だと確信し、アークは困惑する。
ヴェロニカは乱暴で自分に向かってくる相手には容赦はしないが、関係ない人間を殺したりはしない。
ましてや国を滅ぼすなんてありえない。
アーク自身は付き合いが短いが、ヴェロニカの人となりは分かっているつもりだ。
第一、無辜《むこ》の民を殺すような人間だとしたら父テールスが受け入れたりはしない。
アレイスターの話と自分の知るヴェロニカの人物像との違和感から何かの間違いではないかと問うと、鋭い視線が向けられた。
「間違いじゃないさ。僕はこの目で見たんだ。父が魔女に首を刎《は》ねられるさまを!」
何時も微笑みだけを浮かべていたアレイスターが表情を憤怒に染め、声を荒げる様にアークは思わず息を呑んだ。
そこにある本物の憎悪を感じて。
「今でも覚えている。母が炎に包まれる様を。妹が瓦礫の下敷きになり泣きながら助けを求めているのに何も出来なかった不甲斐ない自分を! だから、この十年間生き延びた城の者たちとずっと探していた」
自分を責めるように吐き捨て、拳を握り締める。
「けど、時とは残酷でね長い年月を費やしても成果を得られないとどんな感情をも削り取っていくんだ。正直もう見つからないと諦めかけていたんだ。けど、文化際でその姿を目にした時は全身に震えが走ったよ」
歓喜と狂気の入り混じった声と表情にアークは息を呑む。
「もし人違いしていたら大変だからね、少々手荒ではあったけど確認の為に威力を増幅させた火の竜を落とし、あの女の紡ぐ術式を見て確信した。あの時の魔女だと」
あの時、火の竜落下騒動がアレイスターの仕業だとすると……。
「…先輩、なんですか? 先輩がイグルを……」
「少年愛好家のソディンガルの噂は聞いていたからね。絶世の美少年がいると情報を流したら直ぐに行動に移したよ。彼がピンチに陥れば君は動く。君が動けばあの魔女を引き摺り出せると思ったんだけどね。予想に反してあの魔女は出てこなかった」
悪びれないアレイスターの様子に、アークは怒りで目の前が暗くなった。
あの日目の前で行われた惨劇に、身体中の血液が感情が沸騰し爆発する。
「ふざけるな! それでジェリドが!……私の友人がどんな目に合わされたと思っているんですか!!」
車椅子を倒さんばかりの勢いで怒鳴り付けるが、アレイスターは静かにアークを見ていた。
「その件に関しては本当に申し訳なかったと反省している。だから直接魔女に近付こうと思ったんだけどね。その矢先に逃げられてしまった」
申し訳なさそうに目を伏せるが、その瞳には冷たい光が宿っている。
「ここで見失う訳にはいかないんだ」
「今度は私を餌にする気か?」
問うと、アレイスターは伏せていた目をアークへと移し、問いを肯定するように静かに見詰めた。
「あの魔女は君にご執心のようだからね。ヴェグル国で大きな術式が発動され、君が行方不明となればあの魔女も現れるだろう」
「大きなって……」
「父が残した魔道書を既にヴェグル国で発動させている」
「なっ! 今すぐ止めろ! 餌が必要なら私だけで十分だろう!」
「君の住む国を壊す事は申し訳なく思うが、あの魔女を倒す為には魔道書の力が必要なんだ」
「魔道書の力を持ってしても先生を倒す事は出来なかったと言ったじゃないか!」
「あの時は魔術師の数が足りず魔力が十分じゃなかったんだ。けど、今回は魔術師学校の教師と生徒全員から魔力を借りたからね」
アレイスターの言葉に不穏なものを感じて身体に緊張が走る。
「それは…どういう意味だ……」
「ああ、安心して。君の大事なお友達は魔力収奪対象から外しておいたからね。今頃千五百キロ離れた田舎の魔術師学校で交流戦をしている頃かな?」
だから大丈夫だと微笑むアレイスターを否定するように首を振る。
「私の友人達が無事なら、他の人達は? 先輩の友人は…同じ学び舎で時を過ごした人達はどうなるんだ?」
アレイスターは瞳に寂しさを滲ませ、目を伏せた。
「申し訳ないけど、犠牲になって貰う事にした」
「何言って……」
「何かを得る為には何かを失わないといけない。何もかも手にしたままなんて都合良くはいかない」
「勝手な事を言うな!」
感情むき出しの怒声にアレイスターは軽く笑いながら「本当にね」と零す。
何かを諦めたような歪な笑いに迷いが見て取れ、アークは荒ぶる感情を押え付け、静かに問う。
「先輩が手放そうとしている物より、復讐《それ》は価値があるんですか?」
アレイスターの視線は一瞬揺れたが、それだけだった。
「多分、価値はないよ」
「なら……」
「価値の問題じゃないんだ。人にはやらなければならない事がある」
「それは大切な人達を傷付け、帰る場所を失ってもやらなければいけない事なんですか?」
「これは僕にしか出来ない事だからね」
復讐を頭から否定する気は無い。
アーク自身も大切な人を奪われれば、奪った相手を憎みその首を取りに行くかもしれない。
だが、その為に今ある大切な物を捨てるだけでなく、傷付けるのはおかしい。
救いは無く、新たな傷を作り自身を苦しめるだけの行為に何の意味がある?
アークは必死に手を伸ばしアレイスターの服を掴むと必死に引き寄せる。
「今ならまだ引き返せます。こんな事止めましょう」
「それは出来ない」
「先生を呼び出したいなら、私が何とかします。先生は理由も無く国を滅ぼすような事はしません。理由を訊いてそれでも納得できない時は決闘を……そうしましょう。私が立会人をしますから……」
「君は本当に優しいね」
「先輩の胸には怒りと悲しみが詰まっていたかもしれませんが、一日も笑わなかったんですか? 心寄せる相手がいない訳じゃないですよね? この十年間に積み上げた物を簡単に捨てようとしないで下さい」
「簡単じゃないよ。ジャックやドーリーとの追いかけっこは楽しかったし、魔術師学校の皆との生活は結構気に入っていたんだ」
「それじゃ……」
「だから、君にその格好《すがた》で止めて貰えたらと思ったんだ」
アレイスターは服を握り締めるアークの手にそっと手を添えてそれを引き剥がす。
「でも、駄目だね。あの日の悪夢が後から後から追いかけてきて全てを塗りつぶすんだ」
暗く悲しい笑みを浮かべるアレイスターを見上げ、必死に言葉を探す。
引き止める為の言葉を。
だが、悪夢を払う言葉は見つからず、見詰めるだけになる。
「先輩……」
「先輩じゃなくてお兄ちゃんだろ?」
「ふざけないで下さい……」
「ふざけてはいないよ。架空の妹という存在が僕の心の支えだったんだ。毎年年を重ねるアンジュを想像し、年齢に合わせたドレスやアクセサリーを買って自分を慰めていたんだ」
慈しむようにアークの頭を撫で、そっと抱きしめた。
「本当に君は想像のアンジュにそっくりだ」
身体震わしながらそう告げるアレイスターを片手で抱きしめ返すが、身体は直ぐに離れて行った。
静かに見詰めるアレイスターの瞳に残る何かに縋るようにアークは口を開く。
「バカな真似止めて、お兄ちゃん……」
切なる願いの篭った言葉にアレイスターは顔をくしゃりと歪めた。
そして……。
「すまない。不甲斐ないお兄ちゃんを許してくれ……」
アークの首を掴み、再び声を奪った。
ともだちにシェアしよう!