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繭の中-35-
拘束を外されていた右手を再び車椅子の肘掛に括りつけられると、車椅子は押され、来た道をなぞるようにして城に辿り着いた。ひっそりとした廊下を抜けると、初めにいた部屋へ運ばれ、桃色の家具に囲まれたベッドの直ぐ側で車椅子は止められた。アレイスターはアークの正面へと回った。
「直ぐに戻るからここで大人しく待っていてくれるかな」
声の出せないアークはきつく睨みつける。
「心配しなくても帰ったら直ぐに拘束は解いてあげるよ。もし、万が一にも僕が死ぬような事になったらその時は自動で拘束は解けるようにしてあるから大丈夫」
声が出せないと分かっていても叫ぶ。『ふざけるな』と。
だが、口から漏れるのは音にならない空気だけで、アレイスターには届かない。
「娯楽の無い部屋で無為に時間を過ごすのは辛いだろう。少し眠るといい。目覚める頃にはきっと気の昂ぶりも治まっているだろう」
勝手な事を言うなと手足に力を込め、拘束帯を引き千切らんばかりに身体ごと動かすが、ビクともしない。
「無茶してはいけないよ、アンジュ。痣になってしまう」
なら今直ぐに外せと目で訴えるが、アレイスターは微笑むばかりで取り合わない。
「お休みアンジュ。いい夢を」
アレイスターの指先がアークの額に触れると脳が揺さぶられ眩暈に似た感覚に襲われる。
歪む視界を覆うように垂れ下がる瞼を閉じないように下唇を噛んで耐えていると、悲しげな眼差しで見詰めアレイスターは踵を返した。
遠退く背中を呼び止めようにも頬は引き攣りまともに動かす事は出来ない。
重い瞼が落ちる度に必死に持ち上げるが、アレイスターが部屋を出て行くより早く瞼は完全に閉じられ、アークは暗い闇に引きずり込まれた。
鋭い痛みを覚え、アークは一気に覚醒した。
心臓は跳ね上がり、額からじっとりと汗が流れ落ちるのを感じる。
見開いた目には見覚えの無い天井と見知った顔があった。
霧がかかったように鈍く重い頭で必死に考える。
ここは何処だろうと――。
心配そうに覗き込むジェリドと静かに見詰めるイグルに聞こうにも喉がひりついて声が出せない。
問うように見つめていると友人は何か叫んでいるようだった。
ただ声は酷く遠くて何を言っているのか分からない。
不明瞭な音が徐々にクリアーになって行き、音が声に。声が言葉として認識できるようになると麻痺していた思考が動き、掠れた声が零れた。
「ぁぁ…うぅ…?」
――ジェリドとイグルが居る。
――ならここは術師学校だろうか?
――それともノエル家の別邸だろうか?
――なら天井に何故見覚えがないのだろうか……。
現状を把握しようと重い身体を起こそうとすると、それに気付いたイグルが抱き起こしてくれた。
部屋に置かれた桃色の家具。そして自分が座っているのが天蓋付きの大きなベッドである事。自分が今着ている青いドレスとその上を流れるようにして落ちている金髪を見て漸く思い出した。
そして混乱する。
居るはずのない友人二人が何故ここに居るのか。
「あ…あぁ…」
まだ上手く喋られずに視線だけで問うと、言葉にならない質問に答えるように友人二人とは別の顔が現れた。
「元気そうだね。良かった。おいちゃん細かい術式とか苦手だから失敗しないかドキドキだったよ」
それは記憶に新しい顔だった。
オルソン邸にチェブランカと共に現れジェリドを抱きかかえ運んでくれた男の登場にますます混乱する。
何故チェブランカの手下がここに居るのか、と。
「かけられた術式はまだ完全には解けてないから辛いだろうけど、移動中には解けるだろうからそれまで頑張ろうか」
優しい微笑みと共に男に手を差し伸べられベッドから下りようとするが、上手く身体を動かす事が出来ずに倒れそうになるのをイグルが支えた。
「大丈夫ですか、アーク様」
「うぅ……」
「無理に喋ろうとすんなよ」
友人二人に支えられながらベッドを下りるが、脚は震え立つのがやっとだった。
「まだ一人で動けそうにないね。仕方ないおいちゃんがおんぶしてあげようか」
背を向けてしゃがむと男はジェリドとイグルにアークを背に乗せるように指示し、自力で動けないアークは大人しく男の背に乗せられた。
「そんじゃしみったれたお城とはおさらばしようかね」
男がドアへ向かって歩き出すとアークへ寄り添うようにイグルは並行し、その後ろをジェリドが歩く。
『先生……』
チェブランカの手下が動いている以上、ヴェグル国に戻っているのだろうと声にならない独り言を零す。
「赤毛の方に何か用がおありですか?」
薄暗い廊下で僅かに唇を動かした程度の呟きに返事をされ驚き、注視していると無表情な少年はさも当たり前のように読唇術が出来ると告げた。
「何かあれば私に向かって唇を動かして頂ければ対処します」
そう言われ、アークはヴェロニカが何処に居るのかを訊ねるが、イグルから予想外の答えが返された。
「ノエル家のお屋敷を最後にお会いしていませんので分かりません」
イグル達には会わずチェブランカとその部下達の前にだけ姿を現したのかもしれないと、イグルを通し男にヴェロニカの居場所を訊ねるが、男も知らないと答えた。
「アークくん。君、何か勘違いしてやしないかい」
――勘違い?
「おいちゃん達が君を助けに来たのは赤毛のねぇさんの頼みじゃないよ。この二人に依頼されてだ」
――二人の依頼?
どういう事なのか訊ねようと口を開きかけたその時。
廊下の曲がり角から人影が現れた。
額から血を流しヘラヘラと薄笑いを浮かべている男がソディンガル邸で対峙した傷の剣術師だと分かり緊張を覚えるが、傷の男は近所を散歩するような気安さで近寄ってきた。
「こっちに来れば面白いのと遊べるかと思ったのによ。ハズレだ。ハズレ。カスしかいねぇ」
男はつまらなさそうにぼやく傷の男を呆れ顔で見詰め、苦笑する。
「そう言うわりに随分とボロボロじゃないか」
「ちょっと引っ掻かれただけ。こんなの傷のうちに入りゃしねーよ」
傷の男は「つまんねー」と履き捨てると、アークを覗き込んだ。
「裸にひん剥かれたり女装させられたり忙しいなお前」
からかいの言葉にアークが眉を顰めた。その時――。
建物が大きく揺らいだ。
「ヘルシング。お前さん何をした?」
「ああ?」
「お前さんの仕業だろう」
「別にぃ。庭に仕掛けられていた術式を面倒くせぇからぶっ壊しただけだけど?」
「バカが」
嘆息する男にヘルシングは悪びれる様子もなく「キキキッ」と笑う。
「そう長く持たない。急いで城《ここ》を出ようかね」
その言葉を合図に全員が近くの窓から飛び出し、庭に出る。
見れば、傷を……綻びを……隠す為に塗ったペンキが剥がれ落ちるように偽りの空がパラパラと剥がれ落ちてきた。
アークは男の背中の上で崩れ行く虚構の世界を悲しく思った。
全てを失い、必死に保存してきた思い出が無に還るのを――。
今ある大切なものを道連れに消えようとしている事を――。
仄暗い闇に追い立てられるように虚無の城を抜ければそこは廃墟が広がっていた。
人はおろか獣の姿一つなく、ただ形だけを残した建物が立ち並ぶ通りを突き抜けて行くと荒野へと出た。
ひび割れた地面の上には黒い小型の飛空挺が待機しており、操縦士らしき男が立っていた。
「遅いですよディランさん」
「悪いねぇ。思っていた以上に術式解除が困難で時間食っちゃったよ」
アークを背負った男は軽く笑いながら飛空挺に乗り込むと後を追うように走ってきたイグルとジェリド。そしてヘルシングが乗り込んだ。
飛空挺内に左右二席ずつ設けられた席にアークは下ろされるとディランと呼ばれていた男はその隣の席に座った。
アークの隣を奪われイグルが立ち尽くしているとディランは面白いものを見るように笑った。
「アークくんの隣座りたいのかい? ごめんね。おいちゃん術式下手クソだから直接触ってないと施せないんだよね。ああ、でもそこのレバーを引けば席を対面式に出来るから」
指差されたレバーを引き対面式にすると無表情でありながら不承不承とう様子でイグルはアークの正面に座り、ジェリドはそんなイグルに「拗ねるな」と嗜め、隣に座った。
ヘルシングが一人通路を挟んだ反対の席に座ると乗員の着席を確認した操縦士は「出しますよ」と断り、操縦室へと消えた。
エンジン音を遠くに聞きながらアークは何がどうなっているのか説明を求めるようにイグルに向かって唇を必死に動かすが、それを止めるように隣に座るディランに手を握り締められた。
「アークくん。何も言わなくていいし、聞かなくていい。全部分かっているから」
――全部とは何を何処までだろうか……。
「例え全てを知っても今の君じゃ何も出来ない」
分かってはいてもアレイスターが起こそうとしている復讐劇を思うと気が逸り、言葉すらまともに話す事の出来ない身体がもどかしい。
「今はとにかく休む事だ。おいちゃんが元気にしてあげるから寝ておきなさい」
暢気に眠る事など出来ないと訴えようとするが、唇を動かすより早く握られた腕の痛みに顔を歪ませる。
「おいちゃんも頑張ってバカな王子のかけた術式《のろい》を解除するから、ね」
徐々に痛みと熱が増す腕に爪を立て歯を食い縛り痛みを堪えていると、ディランはそっと囁いた。
「その時が来たら動けるように備えておきなさい」
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