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家族-1-
瞼を開くが視点が定まらず、全てが虚ろだった。
鼻につく薬品のニオイから治癒室のベッドに寝かされているのが分かり記憶を手繰り寄せれば、自ら脚を貫き、流れ出る血を見て気持ちを落ち着けているうちに意識が遠退いていったのを思い出す。
壁を叩く事をしなかったが、異変に気付いたジェリドが処置してくれたのだろう。身体を起こして見てみれば、決闘でボロボロになった服は着替えさせられており、太腿の刺し傷はキレイに治癒されていた。
「目が覚めたか」
「ジェリド」
部屋の奥から現れたジェリドの顔には怒りの色が見え、荒々しい足取りで近付いて来た。
「すまない」
「すまないじゃねーよ! 何があったか知らねーけどなぁ!」
胸倉を掴まれ、引き寄せられる。
「痛いならちゃんと痛いって言え。辛いなら辛いって言えよ。お前を神聖視している連中に言えないなら、せめて俺くらいには言えよ!」
「ジェリド……」
「一人で勝手に傷付くな。何のための友達《ダチ》なんだよ!」
多くの者がアークを特別視し、低い位置から期待と羨望の眼差しで見上げる中、一人だけ同じ目線で居てくれた。
恩人だとイグルやログが忠誠を誓う中、ただの年下の友人として扱ってくれたジェリドの存在は特別という孤独から今までずっと救ってくれていた。
ジェリドになら泣き言を零しても許される。
そう思えるだけで、先程までの絶望が僅かに和らぐような気がした。
「俺はお前に助けられてばかりだな」
「本気でそう思うなら全部ぶちまけちまえよ」
捕虜となっていた半年間。魔王の慰み者となっていた事もそれに慣れてしまった事。
執拗な責めを受け続け心が隷属してしまった事。
それらを告白してもジェリドは軽蔑などしない。確信はある。
それでも忌まわしい日々を己の口から告げるのは辛く、言葉は胸で詰まり、口を開く事が出来ない。
何があったかを話せなければ、抱えている問題を話しても。
何が引き金となって熱を持つか分からない身体。
その問題をどう解決したらいいのか。
身体を元に戻す方法はあるのか。
この事を誰かに知られたらどうなるのだろうか。
後から後から湧いてくる不安をどう言葉にすればいいのか分からず、アークは微笑んだ。
「有難う」
「有難うじゃねーよ。ちゃんと言えよ!」
「うん」
「うん、じゃねー!」
「分かっている。ちゃんと話す」
「なら……」
「ただ、此処へ戻ってくる間に色々あり過ぎて、どう話していいか分からないんだ」
「アーク……」
「少しだけ時間をくれ。きちんと心の整理をつけるから」
そう言われ、ジェリドは溜息混じりに「分かった」と頷いた。
ノエル騎士団の宿舎からログと共にノエル邸に戻ると、見慣れない馬車が停まっていた。
ヴェグル国に帰還して以来、引っ切り無しに申し込まれる訪問を全て断っていたはずだ。
自分にではなく、父への客人だろうかとアークが首を傾げているとメイドのリリンが玄関から飛び出して来た。
「アーク様!」
「どうしたリリン。そんなに血相を変えて」
「良かった戻ってきて下さって!」
「何かあったのか?」
「ミ、ミスリア様が……」
「母上がどうかしたのか!?」
リリンの様子から、良くない知らせかと身構える。
「ミスリア様がお待ちです!」
何でもない知らせに肩透かしを食らったアークは、驚くほど間抜けな声を漏らした。
「は?」
アークには離れて暮らす母と二人の弟がいる。
母ミスリアは十貴族の一つモードン家の一人娘であり、公爵家、或いはそれに次ぐ爵位の家の次男と結婚して跡取りを設ける責務があったが、愛したのは同じ十貴族であるノエル家の一人息子テールスだった。
両家共に跡取りを失う訳にはいかないと、二人の結婚を認めようとせず、領地を守る責務を理解していたミスリアはテールスを諦めようとしたが、情熱家のテールスはそんなミスリアの手を取って神殿へ駆け込み、婚姻届を出してしまったのだった。
一度神へ納められた結婚届を無効化する事は十貴族でも難しく、両家は話し合いに話し合いを重ね、長男はノエル家の跡取りとして、次男はモードン家の跡取りとしてモードン家の領地で育てる事を条件に二人の結婚を渋々認めた。
その為、母とノエル邸で一緒に暮らせたのは弟が生まれるまでの三年間だけであり、それ以降母や弟と会えるのは母が何らかの理由を見つけノエル邸を訪れるか、公の場だけであった。
同じ十貴族とはいえ、格下のモードン家はミスリアがノエル家へ足を運ぶ事を快く思ってはいない。
今回はヴェグル国の英雄であるアーク・エス・ノエルへの帰還祝いの品を届ける為だと言って、領地を出て来た事は明白で、今頃は情熱家の父に歯の浮くような言葉を並べられて困っているのではないかと、リリンの案内でログと共に客間へと向かう。
ノックをし入室すると、そこに父の姿はなく一人背筋を伸ばし貴婦人として一分の隙もない完璧な所作でお茶を飲んでいるミスリアの姿があった。
「母上」
七ヶ月振りに目にする息子の姿に目の色一つ変えず、ミスリアは静かに立ち上がり一礼する。
「ご帰還おめでとう御座います」
抑揚のない声に他人行儀な言葉。
ミスリアをよく知らない人間が聞けば、本心からそう思っているのかと疑いたくなるが、感情を表に出すのが不得手な事を知っているアークは通常に比べて回数の多い瞬きで、どれだけミスリアが帰還を喜んでくれているのかが分かり胸が温かくなった。
「ご心配をおかけして申し訳ありません母上」
屋敷に住み込みで使えているイグルと違い初顔合わせであるログを紹介すると、ミスリアに着席を促しアークも席に着いた。
ログにも席に着くよう促したが、アークの部下という立場から入口側に下がった。
「父上はまだ戻られてはいないのですか?」
何時もならミスリアの来訪を知るや否や、全ての仕事を放りだして屋敷に駆け戻り、ベッタリと引っ付いて離れない父の姿が見えない事をいぶかしむ。
「あれがいると落ち着いて話をする事が出来ません。ですから、誰にも知らせずにここに来ました。無駄だと思いますが、この屋敷の人間にも私が来た事をテールスには知らせないで欲しいと頼みました」
テールスの妻であり、アークの母である十貴族が来ているというのに相手をする者が誰も居ない。
お茶や菓子などを出してもてなしてはいても、何時帰ってくるか分からないアークの帰りを延々待たせるのは気が気ではなかっただろう。
リリンの必死の表情の訳が分かり、笑みが零れる。
「デュークとラヒークはどうしたんですか?」
「そこに……」
指差された方へ目を向けると包装された大量の箱が積み上がっていた。
「それほどに用意しても足らぬと、あなたへの見舞いの品を買いに出かけました」
次男であるデュークは穏やかで落ち着いた性格だが、三男のラヒークは活発で落ち着きがない。
何時帰るか分からないアークを部屋でじっと待つ事が出来ず、見舞い品を理由に兄を連れ立って出かけたのだろう。
「そんな事より、あなたの話を聞かせて頂戴」
無表情でありながらも心配を滲ませた瞳に見つめられ、アークは微笑んだ。
これ以上この瞳を曇らせてはならないと、傷付き血が滲む記憶にそっと蓋をする。
「少し長くなりますよ」
魔王城で過ごした半年間の話は省き、ヴェグル国に帰るまでの長い旅の話を語り出した。
獣人族の住むビーンの森に辿り着いたところまで話し終えると、ミスリアは大きく息を吐き、気持ちを落ち着かせるようにお茶を一口飲んだ。
「魔王の魔力核を取り除いて、それであなたは元に戻れたのですか?」
正直に言えば、その確信も確証もない。
だが、それを打ち明けるわけにはいかないアークは笑顔で嘘を吐く。
「はい」
笑顔に何かを感じ取ったのかミスリアが言葉を掛けようとするが、それを阻むように扉が勢いよく開け放たれた。
「ミスリア。君のために捕ってきたよ!」
満面の笑顔で右手の鴨を掲げるテールスにミスリアは冷ややかな視線を向ける。
「あなたには知らせないでとお願いしたのに、やはり無駄だったのね」
「使用人達の名誉の為に言っておくが、誰一人として私に君の来訪を告げてはいないよ」
「なら何故……」
「愛する君がこんなに近くにいて私が気付かない訳がないだろう」
顔は愛する妻に固定したまま腕だけをアークに向け、鴨を差し出しアークがそれを受け取ると、ミスリアのとなりに腰掛けた。
「長旅で疲れただろう。私もこの通り泥まみれだ。一緒に湯浴みをしよう」
「バカを仰らないで下さい」
「男とは愛する女性の前では常にバカなものだ」
手を取りそっと口付けるテールスに眉を顰め、困ったミスリアは助けを求めるようにアークへ視線を向けるが、アークは微笑むだけだった。
追い払うようにテールスに手を振られ、アークは肩をすくめると、ログと共に客間を退出した。
廊下に控えていた執事に鴨を渡すとログを伴い自室に向かうと、誰もいないはずの部屋から人の気配があった。
メイドのジェーンかリリンでも居るのだろうと扉を開けば、そこには白銀の友人の姿があった。
「イグル。何時戻った?」
「先程戻りました。ミスリア様の馬車がありましたので、お邪魔しては申し訳ないとこちらで待たせて頂きました」
「そうか」
他人の感情の機微には疎いが、ことアークに関してはどんな些細な事でも気付く紫水晶《アメジスト》色の瞳に見つめられ、気まずさから目を逸らす。
『自分を傷つけたいならどうぞ傷つけて下さい。但し私の見ている前で、です。勝手に一人で傷つかないで下さい』
レイナの村で一方的に結ばれた約束を破り、自ら脚を剣で貫いた事を気付かれているのではないかと視線を戻せなかった。
挙動のおかしさに気付いてはいただろうが、イグルはその事には触れず、暫しの沈黙の後。
「場所を変えて話をしましょう」
唐突な申し出に返事をする間もなく転移の術式が発動され、一瞬で周りの景色が変わった。
転移先はノエル家の敷地内にある別邸だった。
繭の中で過去の記憶を見たばかりのアークにとって懐かしさよりも、夢の中と今とでは敷物や置物の違いに違和感を覚えた。
「何故わざわざこんなところに」
「ノエル邸には多くの人間がいますので、念の為にと思いまして」
暗に人に聞かれては困る話をすると言われ、アークとログは身構えた。
「アーク、これを」
差し出されたのは封印を施された黒い石のようなものだった。
「これは?」
「あなたから摘出した魔王の魔力核です」
石の正体を聞きアークは伸ばしかけていた手を止めた。
「大丈夫です。魔法使いが封印したものですから、簡単には解けません」
「何でこんなものを……処分したんじゃなかったのか」
「私も処分するつもりでいましたが、魔法使いが万が一に備えて持っていた方がいいと言うので、一応持ち帰りました」
「万が一って……」
「魔物や他国からの侵略を受け、今ある兵力だけではどうにもならない時。と言う話です」
魔王の力を持ってすれば、何千何万の術師を排除出来るだろう。
だが、その力に魅入られた場合その者は思考を奪われ、人格を破壊され、欲望が剥き出しとなり人ではなくなる。
魔王シスとの戦いで己を見失い残虐な殺戮者となりかけながらギリギリのところで踏み止まれたのは守るべき存在があったからだ。もう一度魔王の魔力核を取り込んだとして、同じように自分を保てるか自信はない。
眼帯の男フェイも言っていた。普通なら魔族に落ちるものだと。
敵を殲滅する為に手を伸ばした力で何よりも厄介な敵になりえる。
そんな危うい力を持つ意味はあるのかと、答えを出せずにいるとイグルは手にしていた魔力核を握り締めた。
「直ぐに答えを出す必要性はありません。暫くの間、私が預かっておきます」
「駄目だ。そんな危険な物を持ち歩くなんて……」
「持ち歩きはしません。別邸《ここ》に隠しておきます」
「ここに?」
「ノエル家の敷地に関係者以外が入るのは困難。この別邸は普段は使われておらず、入るのは掃除にきたメイドや執事くらいです。問題はないでしょう」
「執事やメイドが偶然見つける可能性もあるだろう」
「術師でないものがこれを見つけたところでどうする事も出来ません」
「だが……」
「心配なら私が肌身離さず持っていていましょうか?」
「それは駄目だ」
友人に危険なものを持たせるくらいなら自分で持つと、イグルの手から魔力核を取り上げる。
封印されているとは言え、どれ程危険な代物か知っているだけに手の中のそれをじっと見つめていると背後からそれを奪われた。
「ログ」
「これはこの場に隠しましょう」
「それは……」
「アーク様は色々あってお疲れです。この件はもう少し落ち着いてから考えましょう」
ログの力強い瞳に見つめられ不承不承ながらアークが頷くと、イグルは床のタイルを一つ剥がし、ログがそこに魔力核を埋めるとイグルはタイルを元に戻し、封印を施した。
「何かあった時に直ぐに取り出せないといけないのでタイルの封印は単純なものにしました。ですからある程度の術師なら簡単に解術できますが、解かれれば私に知らせが届く仕組みになっています」
「そんなものでいいのか?」
「例え何者かに奪われたとしても、魔力核に施された封印を解く前に奪い返せばいい」
「解く前って……」
「魔法使いの施した封印です。正しい手順を踏まない限り解く事は不可能に近い」
だから問題はないと言われても頷く事は出来ない。
「さあ、屋敷に戻りましょう」
拭いされない不安を胸に魔力核の埋められたタイルへ目を向けるが、一瞬にして景色は変わり、そこには自室の床があるだけだった。
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