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インフルエンザ 1
夜に、マンションに帰ると、既に東城が帰ってきているようだった。廊下をぬけリビングを覗くがいない。キッチンにも諸先にもいなかった。
ベッドルームのドアがわずかに開いていて、薄明かりが漏れている。
そっと開けると、薄暗がりの中、ベッドに彼が横たわっている。寝るには早い時間だ。
こちらに気づいたのだろう、「ひろせ?」と声がした。かすれて鼻声だ。
近づくと、目を開けてこちらを見ている。
「どうしたんですか?」
「午後になって急に寒気がして、ヤバいと思って帰ってきたんだ。インフルエンザだと思う。お前、うつるとまずいから、ここにいない方がいい」
ベッドサイドに、体温計がある。
「病院、行きますか?体温は、何度でした?」
「帰ってきたときは、37度7分だった。今は、もっとあがっていると思う」
37度7分って、たいしたことないな、と思ったが言葉には出さなかった。
広瀬は、体温計を東城に渡した。
「もう一回測ってみてください」
場合によっては、病院に行って診断してもらい、薬を貰った方がよいだろう。時計を見ると、もう遅い。普通の病院はしまっている時間だ。救急病院をさがすべきだろうか。だが、流行性の病気だったら、行かない方がよいかもしれない。
「母親と美音子さんに連絡してんだけど、どっちも忙しくて連絡がとれないんだ」と東城は医者の家族のことを言っている。「こういう時に限って、学会かなんかなんだよな」
しばらくして体温計がピーっと音をたて、測り終わったことを告げた。
東城は数字を見ている。広瀬は彼の手からとりあげてみた。
「微熱が出ているだけですね」
「インフルエンザかな?」
「違います。熱が出てるだけ」それも、微熱だ。インフルエンザの特徴的な症状は、急な高熱だ。
「お前、冷たいな。お前が大井戸署で保菌者になったせいで、俺にインフルエンザがうつったんだろう」
「菌とウィルスは違うものです」医者の子どもなのにそんなことも知らないのか。
「いや、そこがこの話題のポイントじゃないから」東城がブツブツ言い返している。「こんなに熱が出てんだぞ。身体中痛いし、苦しいし」
大袈裟な人だ。「熱って言っても、38度もないでしょう。東城さんは、平熱も高めだから、それほど苦しくないはずです」
「俺が苦しいかどうか、どうしてお前が判断できんだよ」
それだけ言い返せるというのは元気だということだ。
広瀬は、体温計をベッドサイドに置いた。
風呂に入って、夕飯にしよう。お腹がすいているし、自分だって疲れているのだ。広瀬は上着を脱いだ。
東城は、ベッドにもぐりこんでこちらを見ている。子どもが拗ねているような顔だ。
「晩飯は?」と聞いた。
「まだだ」
「そうですか」返事をしながら考えた。「もしかして、お腹すいていますか?」
「熱があって苦しいから、それほどは減ってない」と東城は答えた。
「そうでしょうね」
「だけど、全然食欲ないわけじゃない」
どっちなんだよ。
「風呂入ったら、用意しますよ」と広瀬は言った。「なにが食べられますか?」
彼はうなずいた。「病人向けの軽いものなら」
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