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「先生、車変えたんだね」  食事を終えて車に乗り込むと、ようやく落ち着いて話ができるようになった。 「先月な」 「前の車は?」 「売った」 「何で?」 「何でって……、飽きたから?」  ふうん、と頷いて、颯馬はシートベルトを締める。  会ってから何本目かの煙草に火を点け、坂城が車のエンジンをかけた。  ふたりが食事をしたのは小さなレストランだった。「何が食べたい?」「ステーキ!」という会話をして最初に見つけたのがこのレストランだった。  駐車場を抜け出し、来た道を引き返す車。  このまま国道を直進して五つ目の信号を右に曲がれば、待ち合わせをした駅に到着する。そしたらこの時間は終わってしまう。  せっかく会えたのに、ごはんを食べてそれで終わり。  どうにかこの時間を引き延ばそうと言葉を連ねても、車は駅前に向かって進んでいく。 「前の車も好きだったなぁ、黒いやつ」 「前のも、っていうことは、今のも気に入ったってこと?」  坂城が煙草をふかしながら言う。颯馬は口端を持ち上げた。 「気に入った。乗り心地いいね、これ」 「そういえばおまえ、気付けば寝てるなんてことも何度もあったよな」  一つ目の赤信号でブレーキを踏みながら、坂城が笑う。 「だって先生、運転上手いから」  そう言って颯馬も笑った。  これまでに何度となく颯馬は坂城の車に乗ったことがあった。  初めて坂城の車に乗った日のことは、すぐに思い出せる。  その日はすごく落ち込むことがあった。落ち込むことは多々あったが、その日ほど心が沈むようなことは珍しかった。  大抵は兄とのことで颯馬は思い悩む。折り合いが悪いという一言で片付いてしまうのかもしれないが、生まれた時から共にいる家族といい関係が築けていないというのは、じわじわと心が傷を負っていく厄介なものだと思う。  その日は、下校時刻になって友人たちが次々に音楽室を後にする中、颯馬だけはなかなか席を立てずにいた。  ぼんやりと座っている颯馬に坂城が歩み寄ってきて、声をかけてくれた。 「どうした?」 「……あんまり家に帰りたくない」 「何で?」 「今はまだ兄に会いたくないし」  その言葉を皮切りに、颯馬は兄と折り合いが悪いことをすべて曝け出してしまった。  坂城は真剣な顔で聞いていてくれた。  結局話し終える頃には、下校時刻をかなり過ぎてしまっていた。  急いで帰ろうとした颯馬に坂城が言った。 「駅の向こう側のファミレスわかる? そこで待ってろ」 「え? 何で?」  理由を尋ねた颯馬に、坂城が悪戯っ子のような目で笑う。 「気晴らしにどっか連れてってやるよ。その代わり、内緒だからな」  それが最初の秘密のドライブだった。  それから卒業までに、何度かこっそり坂城とドライブをしたことがある。  といっても、駅の向こうのファミリーレストランから颯馬の自宅まで、少し遠回りをして帰る程度だ。  初めてのドライブは颯馬が落ち込んでいたこともあって、眺めのいい場所へ連れて行ってもらったが、それきりだった。  だから今日も少し車を走らせて終わり。当然そうだと思っていた。 「……それで、砂原」  信号が青に変わり、坂城がアクセルを踏み込む。 「話せそうな感じになった?」 「……」 「どうしたよ。俺に話したいって思ったんじゃないの?」 「……そんなに」 「ん?」 「そんなに、何かあったように聞こえた? 俺の声」  ほんの少し、自分の声のトーンが下がる。  前を向いたまま坂城が目を細めた。 「声でわかるって何度も言ってるだろ。何年こうやっておまえの悩み聞いてると思ってんだよ」 「……深刻だったのは最初の一回だけだって」  笑いながら、胸の奥が熱くなるのを感じる。  ああ、どうしよう。  ただ先生に会いたかっただけだと今ここで言ってしまいたい衝動に駆られる。  言ってしまっても大丈夫かな。  先生に懐いている卒業生の小さな一言として、受け取ってもらえるだろうか。  その言葉の本意に、坂城が気付いてしまうことはないだろうか。 「……」  二つ、三つ、と信号を通り過ぎる。あと二つ。それで駅だ。  進みたくないというように、颯馬はシートに背中を押しつけた。 「……先生」 「何だよ」 「……もう、帰る?」 「……どうしたい?」 「――……」  まだ帰りたくない。  先生と一緒にいたい。 「…………た、い」  意図せず、颯馬の口から言葉が落ちた。坂城が視線だけをこちらに向ける。 「え? 何? 聞こえねぇ」 「……行きたい」 「どこに?」 「先生の、家」 「は?」  最後の信号で再び赤信号に捕まった。ブレーキを踏み、坂城が目を丸くして振り返る。 「俺の家? 来たいの?」 「……」  うん、と頷くことはできなかった。  颯馬は俯いて膝の上で拳を握る。  自分でよくわかる。絶対に耳まで真っ赤だ。  坂城の表情を窺うこともできずに黙っていると、煙草を消す音ともう一本に火を点ける音が聞こえてくる。  ふう、と煙を吐いて、ふたりの間に沈黙が流れた。 「……ま、いっか。おまえもう俺の生徒じゃねぇし」  やがて、静かに坂城が言った。颯馬は勢いよく顔を上げる。 「いいの!?」 「いーけど、別におもしろいもんなんか何もねーよ?」  あと、散らかってる。そうつけ加えて坂城が眉を寄せて笑った。 「つーかおまえ、時間は? 家帰らなくても大丈夫なのかよ」 「俺今ひとり暮らしだよ」 「学生寮でもなく?」 「うん。だから門限もない」 「どこ?」 「隣の駅の近く」 「S駅?」 「そう」  頷くと、車が発進する。  青信号の交差点。運転席の奥に見える景色は、待ち合わせをした駅だ。  そこを通り過ぎて、車はさらに直進する。  少しでも長く引き延ばせた坂城との時間が嬉しくてたまらなかった。

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