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「先生、それって何の曲?」 「これか? ……これは、古い洋楽」 「曲名は?」 「何だったか……、あんま覚えてねぇや。歌詞とメロディがいいってことしか覚えてない」 「綺麗な曲だね」 「だろ?」 「……どんな歌詞?」 「……」 「先生?」 「……内緒」  3  あ、この曲知ってる。  ピアノの音色を聴きながら、颯馬は高校時代を思い出した。  初めて坂城にピアノを弾いてほしいと頼んだ日、奏でてくれたのもこの曲だったように思う。  曲名も覚えていない。気に入ったという歌詞も内緒だと言われた、あの曲。  一度聴いて颯馬も気に入ったのだが、未だに曲名も歌詞もわからないままだ。  手がかりになるものがうろ覚えのメロディだけだったので自力で探すことは早々に諦めるしかなく、その後坂城に何度となく「あの曲の題名は?」と聞いてみたが、「忘れた」と答えられ、「それなら歌詞は?」と聞けば、やはり「内緒」と返ってくるだけだった。  気になって仕方がない颯馬の気持ちを煽るように、時々坂城はこの曲を弾いていた。  そして尋ねる度にはぐらかされて、結局何もわからないまま卒業することになってしまった。 「……先生」  曲を弾き終えて鍵盤から指を離した坂城に、颯馬は声をかける。 「ん?」 「……今の曲って、学校でも弾いてたやつだよね」 「……あー、そうかな、そうかも」 「俺、その曲のCD欲しい。題名何?」 「何だったかな」  椅子から立ち上がり、ピアノから離れていく坂城を追いかけ、颯馬は口を尖らせた。 「いっつもそればっかりだよ、先生」 「いやホントにわかんねぇの。誰が歌ってる曲だとか、いちいち気にしてないっつーか」 「歌詞はいいってことは覚えてるのに?」 「その歌詞が何だったかも、今は曖昧だよ。最近聴いてないし」  颯馬は小さく溜め息を吐いた。  先生が好きな曲なら、俺も聴きたいと思うのに。  ほんの小さな共通点でもいいから欲しいと思うのは、我儘なのかな。  同じものを好きになって、その話をしたいと思うのは。  我儘、かな。贅沢?  ……そんなことはないよな。 「そんな曖昧にしか覚えてないのに、楽譜買うくらい好きな曲なの?」  聞いた颯馬に、ソファに座った坂城が答えた。 「楽譜? ないよ」 「え、だって……」  この辺にいろいろあるし、この中の一曲じゃないの、と颯馬は床に散らばる楽譜を指差す。  はは、と笑った坂城が背もたれに寄りかかった。 「あれは適当。耳に残るメロディだし、俺が勝手にアレンジして弾いてるだけ」 「え?」  そんなことできるの? と言った颯馬に坂城がさらに笑った。 「一応な。あんまり得意じゃないけど」 「すごい……」 「すごくねぇよ」  笑いながら、坂城が煙草に火を点けた。  ふわりと舞ってくる煙草の香り。坂城の煙草の匂いは嫌いではなかった。  ピアノを弾く手だからか坂城の指は細くて綺麗で、煙草を挟んで口元へ運ぶ動作がすごくかっこよく見えた。 「……先生、これ見てもいい?」  足元にある楽譜を持ち上げ、颯馬は坂城に見せる。 「いいよ」  答えが返ってくるのを待って、楽譜を開いた。  颯馬は音楽が得意ではなかった。  坂城の授業だから真面目に聞いてはいたが、内容に関してはさっぱりだった。  当然、楽譜を読めることはなく、開いてみたもののそれが何の曲なのか、どんな旋律なのかもわからない。  ただ、五線譜の上にぎっしりと並べられた音符を見る限り、難しい曲だということだけはわかる。  得意ではないし、音楽自体に興味も然程ない。だが、坂城が奏でる曲には興味がある。 「……どんな曲?」  颯馬が譜面台に楽譜を立てかけると、煙草を咥えた坂城が歩み寄ってきた。 「どれ?」 「これ」 「ああ、有名な曲だよ、クラシックの。砂原も聴いたことはあるんじゃない?」  言いながら坂城が右手だけで鍵盤を叩いた。  奏でられたメロディは、颯馬もどこかで聴いた覚えがあるものだ。 「あー知ってる!」 「だろ?」 「何だっけ、何かのドラマで使われてた曲だ」 「そう?」  指を離した坂城に代わり、今度は颯馬が鍵盤に指を置く。  といっても颯馬はもちろんピアノなど弾けないので、指を置くというよりも人差し指で鍵盤をつつくことしかできない。  確か坂城の指はこのあたりを弾いていた。試しに適当な鍵盤をつついてみると、坂城が小さく笑った。

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