9 / 62

3-2

「……それ、最初の音」 「え?」 「次はここ。弾いてみ?」 「え、え?」 「そんで次はこっち」 「は?」  示された通りに鍵盤をつついていく。  旋律と呼ぶにはがたがたの音が部屋に響き渡った。 「うん、もう一回最初から」 「ちょ、せんせ……」 「こことここの音はちょっと伸ばして」 「……最初、どこだっけ……」 「ここ」 「そっか。えっと……」 「うん、そこで伸ばしてー」 「……こう?」 「そうそう、そんな感じ。おまえ器用だな、人差し指一本でよく弾けるな」 「や、普通ピアノ弾ける人の方が器用って言うと思うよ」 「でもさ、指一本で二小節弾いたよ、おまえ」  ぽかんとした顔で颯馬は坂城を見上げた。  何、という視線が返ってくる。 「に……、しょうせつ、って、何だっけ……?」 「……おまえなぁ、俺の授業ちゃんと聞いてた? つーかこんなの、小学校で習うような内容だろ」  脱力した坂城が颯馬の額を小突こうとする。その指から逃げて、颯馬は慌てて首を振った。 「き、聞いてた! 聞いてたけど、あまりにも馴染みがない単語だし、思い出すのに時間がかかるだけだって!」 「ホントかよ」  あーもう、どっちでもいいけど、と苦笑しながら坂城が腕を伸ばしてくる。  坂城の大きな手が颯馬の頭の上に乗り、ぐいっと引き寄せられた。  小さな子どもにするみたいに、わしわしと髪の毛をかき混ぜ、坂城がテーブルへ戻っていく。 「……」  坂城の手が離れた頭に自分の手を乗せ、颯馬は緩く唇を噛んだ。  以前から、坂城はこんなことをする。  髪を撫でたり、肩に手を置いたり、颯馬の冗談に親しみを籠めて「ばーか」と言ったり。  いくら仲が良くても、他の生徒にそんなことをしている坂城は見たことがない。  颯馬にだけ。  颯馬だけ、ほんの少し特別扱いをする。  車に乗せてくれることもそうだった。他の生徒にはそんなことをしない。  だから、坂城にとって自分はちょっとだけ特別。  そんなふうに思ったのは、高校二年の夏だった。  坂城へ向く自分の想いの名前を自覚して、毎日浮かれていた頃だ。  そんな時に、自分は相手に特別扱いをされているのだと気付いたなら、自惚れたりもするだろう。  この恋は必ず叶うものだと。  だが、卒業してみれば連絡先を交換することもできない距離のままだった。  卒業までに颯馬は思い知る。  坂城の特別扱いは、そこ止まりなのだと。  ほんの少し、他の生徒よりも可愛がってもらえていた、その程度だったのだと。  車に乗せてもらっても、ふたりでどこかへ行きたいという颯馬の望みは叶えてくれたことはない。  どこかへ寄るのかと遠回しに聞いても、「おまえの家の近くまで送るだけだよ」と言われて終わる。  休日に会いたいという願いを込めて、今度の休みは何をするのかと問うと、「最近忙しいんだよ」と返ってきて終わる。  それ以上踏み込まれないように、坂城は絶対的な線引きをしている。  それを感じ取れない程、自分は鈍感ではなかった。  優しく拒絶する坂城に気付いたのは、高校二年の秋の終わり。  それから卒業までは、じわじわと苦しい毎日だった。  それでも好きで、嫌いになどなれなくて、浮かれたり落ち込んだりを繰り返す日々が今の今まで続いている。 「砂原」  灰皿で煙草を消した坂城が颯馬を振り返る。 「おまえ、そろそろ帰れ。送ってく」 「……今、何時?」 「九時半。俺も明日仕事だし、おまえも学校だろ?」 「……うん」  でも、まだ帰りたくない、という一言が言えなかった。  坂城がテーブルの上に投げてあった車のキーを手に取る。床に置いた鞄に歩み寄り、颯馬もゆっくりと荷物を持ち上げた。 「忘れ物ない?」 「……うん」  坂城が玄関へ向かう。  小さく拳を握りしめて、颯馬はその背中を追いかけた。  腕を伸ばして、坂城のシャツを掴む。 「先生」 「どした?」  廊下で足を止めた坂城が振り返った。 「……先生」  俯きたい気持ちを何とか抑え、颯馬は坂城を見上げる。  片眉を持ち上げた坂城の顔。  どうか、その顔に拒絶の色が浮かびませんように、と願いながら口を開く。 「先生、あのさ、……その、連絡先とかって……」 「……」  シャツを掴む颯馬の手は、ずっと小さく震えていた。

ともだちにシェアしよう!