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『バイト終わるの何時?』 『十時だけど』 『じゃあ終わったら連絡して』 『うん、わかった』  坂城とのやりとりに夢中になっていると、目の前で勇大が頬杖をついた。 「……経験値かー」  颯馬の言葉を繰り返し、勇大が続ける。 「そういう意味での経験値は、当人同士で積んでくしかないだろ」 「それはわかってるけど」  わかっている。わかっているけれど、どうしても気になってしまう。  坂城は大人で、キスをすることにも慣れているだろう。唇を押しつけるだけだった颯馬からのキスとは違い、坂城がしてきたのはもっと凄いキスだった。  初めてで驚いたということを差し引いても、あの直立不動で硬直していた自分は無様以外の何ものでもない。  わからないならわからないなりにもっと別の対応の仕方もあったはずなのに、頭の中はほぼパニック状態で何もできなかった。  だから大人の雰囲気や内面が自分に備わっていたら、そういう時も落ち着いていられるかもしれないと思ったのだが。  世の中、そう都合よくはできていないか、と颯馬は心の中で呟いた。 「でもさ、たとえば相手が前に付き合ってた人のこととか、勇大は気になったりしない?」 「それなー」 「何?」 「うっわ、心狭っ」 「……」 「って言われるよな、大抵は」 「……だよな」  坂城は颯馬よりもずっと大人だ。だからこれまでに他の人とそういう関係になったことがあるのは当然だ。それは納得している。  だから坂城の過去の話を聞いても自分は嫉妬しないと思っていた。けれど、実際に話を聞いてしまったら胸の奥がもやもやとして落ち着かなくなった。  過去に恋人がいた。多分その事実は原因ではない。  颯馬の心に引っかかるのは、その相手だ。  坂城は卒業前にひとりの生徒に手を出したと言っていた。ということは、過去にも自分のように特別扱いを受けた生徒がいるということだ。  何だ、自分だけじゃなかったのか、と落胆する気持ちと、規律やモラルを飛び越えてでもその生徒は坂城に欲しいと思われて、実際に行動に移されたという事実を羨ましがる気持ちがある。  今さらどうこうできるものではないとわかっているが、それならこの感情はどう処理すればいいのだろう。他の人はどうしているのだろう。 「まあでも、気になるのはしょうがないんじゃね?」 「……そうなのかな」 「気にならない、気にしないってヤツももちろんたくさんいると思うよ。けど、気になるって思うのも、まあしょうがないじゃん。気持ちの話なんだし」 「うん……」 「ただそれをさぁ、表に出して、相手とぎくしゃくすんのは違うと思うわけ、俺は。前に何があろうとさ、今はおまえが選ばれてるんだから、それだけ見てればいいんじゃねぇの?」  そうだよな、と頷いて、颯馬はポテトをつまんだ。  しばらく勇大ととりとめのない話をして、ふたりはそれぞれのアルバイト先へ向かった。  颯馬はS駅の近くにあるイタリアンレストランでホールの仕事をしている。進学、引越しと同時に始めたアルバイトで、人が足りないからと言われてよく考えずにホールスタッフとなったのだが、後からキッチンスタッフを希望すればよかったと考えるようになった。  実家で暮らしていた頃は料理などすることはなかった。アルバイトで包丁の使い方や簡単にでも調理の仕方を覚えたら、ひとり暮らしの自炊に多少の役に立ったかもしれない。  元々の知識も、これから調べる気力もない颯馬は自炊をすることなく今に至っている。母親が新しい炊飯器を買って持たせてくれたが、一度使ってそれきりだ。理由はわからないが、その一回もおいしく炊けなかった。  夕方六時から夜の十時までキッチンと客席を行き来して皿を運び続け、時間になったので制服から私服に着替えて店の外へ出る。身体はへとへとに疲れていたが、心は軽かった。  歩道の端へ寄り、颯馬は携帯電話を取り出した。坂城に言われた通り、すぐに連絡をする。 『バイト終わった』  夕方同様、すぐに返事が来きた。 『おまえのバイト先ってどこなの』 『S駅の近くのレストラン』 『確かおまえが今住んでるのもS駅の近くって言ってたよな』 『ここから歩いて十分くらい』 『もう家着いた?』 『まだ。今店出たばっかり』 『メシは?』 『これから買う』 『じゃあ今すぐに買って』  首を傾げた颯馬の手の中で、続けざまに携帯電話が震える。 『買ったらS駅の前で待ってろ』 『車で拾いに行くから、俺の家でメシ食えば?』  はっとして颯馬は慌てて文字を打った。 『いいの?』 『いいよ』 『やった!』 『今時間は道路空いてるから十五分くらいでそっち着くよ。急いだら?』 『わかった。急いで買ってくる』  こんなふうに坂城と過ごせる日が来るなんて思ってもみなかった。  けれど、こんな日が来るのをずっと望んでいた。  携帯電話を鞄へ戻し、颯馬は駅前のコンビニエンスストアへ向かって走り出した。

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