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7-2
「おいしかった! ごちそうさまでした!」
あっという間にすべてを平らげた颯馬が食器を抱えてシンクへ駆けてきた。
「食器洗うスポンジはこれでいいの?」
「そうだけど、別にいいよ、置いとけば」
後で俺が洗うから、と言う坂城に首を振って、颯馬が皿を洗い始めた。
ぼんやりと思考に耽っていたせいで、いつの間にか煙草が燃え尽きている。長く残る灰が落ちないようにそっと灰皿へ煙草を捨て、坂城は颯馬へ歩み寄った。
「何かすげぇ早くなかった?」
「へ? 何が?」
「食べるの。おまえそんな早食いだったっけ?」
坂城の問いに答えようとした颯馬の顔が、ふと赤くなった。それを隠すように俯いて、泡だらけの皿を水で流している。
「まあバイト終わりだもんな、疲れてるだろうし、腹も空いてて当然か」
「う、うん……、だけど……」
「だけど?」
「あの、時間が……」
「時間?」
坂城は部屋の壁掛け時計へ視線を向ける。颯馬から連絡が来たのが十時過ぎで、今は十一時の少し前。何も考えずに連れてきてしまったが、颯馬はもう帰りたいとでも言いたいのだろうか。
時間がないなら無理せず断ればいいのに、と呆れた視線を颯馬へ向ける。皿を水切りかごへ移した颯馬が何故か耳まで赤くしていた。
「……だって、のんびりご飯食べてたら、時間もったいないし」
「は?」
「平日だし、明日も学校あるから帰らなきゃならないし、だから少ないだろ、一緒に……、いられる、時間……」
颯馬の声がだんだん小さく消えていく。反対に頬はどんどん赤くなる。
「先生のピアノ聴きたいし、話もしたいし……、だから急いで食べた……」
笑いそうになるのをどうにか堪えた。濡れた手をタオルで拭いている颯馬に、坂城はほんの少し意地悪な質問を投げかけてみる。
「……それだけ?」
「え?」
目を丸くした颯馬が見上げてくる。
「俺にしてほしいのは、ピアノを弾くのと、話だけ?」
「……」
絵に描いたように颯馬が硬直した。
「それだけ?」
「……じゃない、けど」
「じゃあ他に、俺に何してほしい?」
「……」
一歩、颯馬が歩み寄ってきた。真っ直ぐ坂城を見上げ、遠慮がちに唇が言葉を紡ごうとする。
ああもう、言われる前にしてしまおうか。思わずキスをしそうになった坂城の耳に、颯馬の小さな声が届く。
「……抱きついていい?」
「……」
まさかそんな言葉が来るとは思わなかった。
「いいよ」
坂城が頷くと、颯馬が恐る恐る抱きついてくる。その背に腕を回し、ぎゅ、と抱きしめる。
「何おまえ、俺にこうしてほしかったの?」
「……だって、してもらったことないから」
「そーだけど。……これだけ?」
颯馬が勢いよく顔を上げた。
「それってたとえば、キスとか?」
「したくないの?」
「……でも」
「でも何」
答えずに颯馬が再び坂城の胸に顔をうずめた。小さく息を吐き、坂城は颯馬の頭をぽんぽんと撫でる。
「砂原」
「……嘘みたいだ」
「嘘って……」
「……夢、みたいだ」
「……」
何が、とは聞けなかった。聞かなくても大体の答えはわかっている。坂城がこんなふうに颯馬の気持ちに応えることに戸惑いを感じているのだろう。これまでずっと拒絶してきたのだ。自分でもこの豹変ぶりは正直怖い。
「砂原、顔上げて」
素直に顔を上向けた颯馬の目を覗き込み、そっと額を触れ合わせた。
颯馬に言ってやりたいことはたくさんあった。けれどどれも上手く言葉にならなかった。颯馬と出逢ってからこれまでのこと、颯馬が自分を追いかけてきた日々、それを突き放してきた自分の言動を思い返し、結局出てきたのは一言だった。
「……ごめんな」
颯馬が泣きそうな顔で笑う。まだ子どもなのに、大人でもなかなかしないこんな複雑な表情をさせるようにしたのは間違いなく坂城だ。
じゃれ合いの延長でしようとしていたキスを、今は颯馬を求めるためだけにしたくなる。
鼻先を触れ合わせ、次に唇を触れ合わそうとした時。
「……あ、ま、待った……」
身体を離した颯馬の両手に口を塞がれた。
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