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7-3
何だよ、と手の中で言うと、颯馬が慌てて首を振る。
「あ、ごめん、でも、あの……」
坂城から手を離し、颯馬がじりじりと後ずさりをした。
「何、嫌なの?」
「嫌じゃない、けど。……でも先生、俺……」
この前キスをした時の颯馬の様子を思い出した。突然のことで驚いたというのもあるだろうが、キスをしてあんなに狼狽えられたのは初めてだった。その理由は予想できる。
「……砂原、あのさ」
「な、何?」
「この前のキスが初めてだったり、する?」
面と向かって問うと、颯馬の目があからさまに泳いだ。
「え、いや、その、そんなことは……、ないような、ある、ような……」
「あのな、一応質問っていう形にはしたけど、こっちは確信してるわけよ」
「……だよね」
息を吐きながら颯馬が項垂れた。
「初めてだったよ」
「怖かった?」
「……びっくりしただけ。……あと、どうすればいいのかわかんなくて、混乱した」
「……」
「だから、先生」
不安そうに颯馬が坂城の服の裾をつまむ。
「……教えて」
――ああ、ヤバいな。
こういうことをしてくるから、幼く真っ直ぐな想いをぶつけてくる颯馬と真正面から向き合うのが怖かったのだ。こんなことを言われてぐっと来ない男がいるだろうか。本気になりたくないと思っていたのに、気付けば引き返せない程深みにはまっている気がする。
キスも、それ以上のことも何も知らない。坂城以外を誰も知らない。そんな颯馬にひとつずつ自分を刻み込んでいく。
それは何よりも甘美な、颯馬に想われている坂城にだけ許された特権だ。
「顔上げて」
「……うん」
「口開けて」
「……ん」
「舌、出して」
坂城の言葉の通りに、颯馬が舌先をちらりと覗かせる。小さく笑って、坂城は舌先を触れ合わせた。
食むようにしてキスをすると、颯馬がぴくりと肩を震わせた。
薄く開いた唇の隙間から舌を入れ、深く絡ませる。舌の裏をくすぐるように舐めると、颯馬の息が頬を掠めた。
「……あ、の、……先生」
「ん?」
顎を引いた颯馬が内緒話をするように囁いてくる。
「だから、俺、どうすればいいの?」
「別に今のままでいいけど?」
「でも……」
「まあ、自分からもしたいんだったら、とりあえず俺と同じことをすればいいよ」
再びキスをすると、颯馬が戸惑いがちに舌を絡ませてくる。その拙い動きでは快楽というものが呼び覚まされることはないが、心の中は充足感で満たされていく。
――ああ、本当に。
恐ろしくてたまらない。
こうしてひとつひとつ自分というものを見失って、ひとつひとつ相手に想いを差し出していって、その先に何が待っているのかを坂城は過去に経験している。
これ以上ないくらい盲目に捧げた心は、簡単に忘れ去られてしまった。
もう二度とそんなことにはなりたくない。傷つきたくはない。
だから、そんな恋はしないと決めた。
あの時から五年以上の年月が過ぎ、その間に男女を問わず数人と「恋人」という関係になってきた。けれど、どれも長続きはしなかった。
長続きさせなかった、という表現の方が正しいかもしれない。
相手に深く踏み込むことはせず、深く心を寄せることもしない坂城の元から、誰もが様々な理由で離れていった。
優しくない坂城に愛想を尽かした人もいれば、もっといい相手との結婚を選んでいった人もいる。ちゃんと自分を見てほしいと泣かれたこともあったが、それでも自分を変えることはしなかった。
心を差し出さなければ痛みを感じることはない。簡単に離れられても、忘れられても、傷つくことはない。
そうすることで大人としての自分を保ってきた。
今、颯馬によってこじ開けられた坂城の心は、行き先を探している。これまでとは違う、けれども自分を確立させていくための方法を見つけなければならない。そうでもしなければ不安に押し潰されそうだった。
ずっと坂城を想い続けてきた颯馬。坂城以外を誰も知らない颯馬。
このまま。
このまま颯馬の耳を塞いで、視界も奪って、身体も、意識もすべて自分だけのものにしてしまったら。
離れたくても離れられないようにしてしまったら、いいのではないだろうか。
そうすれば、もう二度と失わずにいられる。
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