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深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それから気合を入れるために頷いて、リダイヤルをした。
コール音一回半でそれはすぐに繋がり、聞き慣れた声が耳元で響いた。
『颯馬?』
「……うん、電話くれたみたいだけど……」
『何してたんだ?』
「ごめん、バイトから帰ってすぐに風呂入ってたから気付かなかった。今風呂から出て、電話あったの気付いてすぐにかけ直したんだよ」
『そうか。今日もバイトだったんだな』
「うん、でも今日はいつもより短い日だったから早く帰れた」
ベッドに腰を下ろし、颯馬は緩く唇を噛んだ。
電話の相手、それは兄だ。兄と話すのは苦手だった。
『最近連絡がないけど、どうしてるんだ、颯馬』
「別に普通だよ。何もないから、特に連絡することもないかなって」
『ひとり暮らしを始める時に言っただろう。母さんも心配するから定期的に連絡しろって。何もなくても電話しなさい。携帯、いつでも繋がるようにしてあるんだから』
「……うん、ごめんなさい」
兄とは十歳年が離れている。会話だけ聞けば、頼りない弟を心配する優しい兄として人の目には映るかもしれないが、実際は少し違う。
颯馬の家は会社を経営している。祖父が始めた小さな会社を父が継ぎ、業界でも一二を争う程の企業へと成長させた。そして兄はその後継者として、颯馬が生まれる前から教育を受けて、現在は父の右腕として働いている。
子供の頃から兄は成績優秀で人当たりも良く、両親の期待に応えることに喜びを感じているように見えた。けれどそれは颯馬の勘違いで、何でも上手くこなしていく兄は兄なりにストレスや息苦しさを感じていたようだった。
そのストレスの捌け口が、まだ幼い颯馬だった。兄という後継者がいたので、次男の颯馬は自由に育てられた。兄はそれが気に入らなかったのかもしれない。両親に隠れていじめられていたわけではない。ストレス発散や心のバランスを保つ術として、兄は颯馬へ過保護に接した。過干渉と言った方が正しいかもしれない。
あれは危ないから触っちゃだめだよ。それは身体に悪いから食べちゃだめ。あの子は悪い子だから友だちになったらいけないよ。そこは颯馬に相応しくないから行っちゃだめだよ。それは颯馬には必要ないことだから覚えなくていいんだよ。
何をするにも兄の許可が必要だった。兄が許してくれたものを食べ、兄が認めた友人と遊び、兄がしていいと言ったことだけをしてきた。
欲しいものがある時は必ず兄とふたりで買いに行った。両親から小遣いはもらっていたが、それはすべて兄に渡していた。貯金しておいた方がいい。俺が全部やってあげるから。兄の言葉通りにしていた。颯馬が欲しいものはすべて兄が買ってくれていた。本も、服も、靴も、何もかも。
両親の目には仲のいい兄弟にしか映らなかったのだろう。弟の面倒をよく見ている兄、兄の言うことをよく聞いている弟。これ程理想的な兄弟もない。
その頃の颯馬は兄にされることが普通だと思っていた。けれど、心は隠れて悲鳴を上げていたのかもしれない。颯馬にとって家というものは息苦しい場所だったから。
自分と兄の関係がどこかおかしいことを知ったのは高校に入学してからだった。友人たちと何気ない会話をしている時に、知らないこと、できないことが多すぎると気づいたのだ。帰りにコンビニのATMで金下ろさないと、と誰かが言ったことに物凄く驚いた。颯馬はコンビニエンスストアでも銀行でも郵便局でも、自分で預金や貯金を引き出したことなどなかったのだ。友人たちと買い物に行く機会すらなかった。
おかしいことに気づいてしまえば、家というものに感じる息苦しさは爆発的に増えていった。今まで知らなかったことを少しでも多く知りたくて、友人たちと過ごすことに時間を多く費やすようにした。颯馬が変わり始めると兄の過干渉も酷くなり、言い争って脅されたり、無理やり従わされたりするようになってしまった。
家に帰りたくないと本気で思い始めた頃、初めて坂城に兄とのことを相談した。最初の日は黙って話を聞いてくれて、気晴らしにドライブに連れて行ってくれた。二度目の相談からは、坂城も少しずつアドバイスをくれるようになった。
坂城の助言を得て、颯馬は兄との接し方を変えるように努めた。言いなりになっていてはいけない。けれど兄と喧嘩をしたいわけでもない。その合間を縫っていくのは大変だったけれど、それでも何とかしようと頑張ってきた。自立したいという颯馬の気持ちを兄も次第にわかってくれるようになり、息苦しさも減っていった。けれど颯馬が高校三年生になると、それまで抑えていた兄の過干渉は大きな爆発を起こすことになる。
颯馬の進路を兄が決めようとした。大学はここへ、卒業したら自分の傍で働くように、と。
勉強は俺が教えるから颯馬は必ずこの大学に受かるよ。そう言った兄の言葉が怖くてたまらなかった。
坂城から助言をもらい、颯馬は兄に反発することを選んだ。したくない喧嘩をたくさんしたし、毎日のように泣き喚いた。兄の言う大学には行きたくない、家を出たいと一歩も譲らない颯馬に最終的に兄が折れて今の学校へ通うことになったのだが、ひとり暮らしの部屋は兄が見つけてきた。ここなら学校からも近いし安全だから、と。
結局、就職のことは曖昧なままで家を出て来てしまった。おそらく兄の中では颯馬は卒業後自分の傍で働くものだと思っているだろう。颯馬も、そんな気がしている。兄と争うことはもうしたくない。だからこの学生生活が最後の自由時間なのだろう。
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