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『やっぱり失敗だったな、颯馬のひとり暮らしを許可したのは。食事はきちんと摂ってるのか? 俺がいないと颯馬は何もできないんだから』
「食べてるよ。こっち来る時にもらった炊飯器も使ってるし」
『自炊してるのか?』
「自炊っていう程ちゃんとしたのじゃないけど、それなりには」
嘘を吐いた。けれど、こうでも言わないと兄はきっと安心しない。
『それなり、ね。そうだ、週末はこっちに帰ってきたらどうだ?』
「……え?」
『そうするといい。母さんも喜ぶし、颯馬だってたまには母さんの料理を食べたいだろう?』
「週末って……」
週末は坂城と会う約束をしている。実家になど行きたくない。
「……週末は、ごめん、予定があって……」
『予定? 何?』
「あ、えっと……」
友人と遊びに行くと一言でも言おうものなら断れという命令が飛んでくるだろう。一瞬のうちに考えを巡らせ、颯馬は言葉を続ける。
「課題やらないといけないんだ」
『課題?』
「うん。ちょっと難しくて、のんびりしてたら間に合わないから……」
『それなら俺が手伝うよ』
「だめだよ。自分でやらないと。それに、大きな図書館行って調べないといけないし、だから……」
『……そうか。それなら仕方ないな』
「また今度、必ず行くから」
『わかった。今度な』
「うん。じゃあ切るね。寝るまでの時間で少しでも課題進めないと」
『ああ、おやすみ』
「おやすみなさい」
通話を終えて、颯馬は深く息を吐き出した。
兄との接し方で坂城から最初にもらったアドバイスは、上手に嘘を吐けるようになれ、だった。幼い頃から兄には本当のことを言うように教えられてきた颯馬にとって、それが初めての悪いことだった。それからずっと、兄に対して悪いことをし続けている。
心臓が痛い程脈打っていた。携帯電話を持つ手が小刻みに震えている。気付けば坂城へ電話をかけていた。
祈るように目を閉じて、携帯電話を耳に押し当てる。一回、二回、とコール音を数えて、五回目の途中で繋がった。
『砂原?』
「……先生、あの……」
『どうした? そろそろ寝る時間だろ、おまえ』
坂城の声を聞いて心臓の音が静まっていく。颯馬はゆっくりと瞼を開けた。
「……今度のデートが楽しみすぎて、眠れそうにない」
そのままベッドに寝転がってくすくすと笑みを零す。
『どこに行くか決めた?』
「……先生とふたりで、どっか遠くに行きたい」
『遠くってどこだよ。ドライブしたいの?』
呆れたように笑う坂城の声が耳元で聞こえる。天井を見つめ、颯馬は小さく息を吐いた。
「……どっかにないかな」
兄とのことを一切気にしなくてもいい世界が。
『……砂原』
ふと坂城の声が低くなった。
『おまえ、何かあった?』
「……何もないよ」
『嘘吐くなよ。前に言ったろ、すぐにわかるって』
「……」
『……今から行くわ』
突然の坂城の言葉に、颯馬は思わず飛び起きた。
「え?」
『今から行くっつってんの。おまえが住んでるのって寮じゃなくて普通のマンションなんだよな?』
「え、え?」
『確かS駅の近くだって言ってたよな。住所言って』
坂城の声の向こうから物音がする。扉を開け閉めするような音と、ガサガサという何かが擦れるような音。今聞こえた金属音はおそらく車のキーを取った音だ。
『近くにコインパーキングあるかわかる?』
「……向かいのマンションの隣にあるけど、でも先生」
『砂原、住所』
戸惑いながら住所を告げると、わかった、少し待ってろ、と坂城が言って通話が切れた。
呆然としながら携帯電話を耳から離す。
今から来る? 先生が? ここへ?
「――……っ」
颯馬は慌ててベッドから飛び降りた。床に散らばる教科書を掻き集めて本棚へ押し込み、テーブルの周りに転がる空のペットボトルをゴミ箱へ突っ込み、後でいいやと放置していた脱ぎっぱなしの服を抱えて洗濯機へ放り込む。それからキッチンの棚の引き出しを開けて中を確認する。緑茶と紅茶はある。けれど坂城がよく飲むのはコーヒーだ。確か前にインスタントのカプチーノを買った覚えがある。どこだ。この奥だろうか。腕を突っ込んで奥から箱を取り出す。あった、これだ。
食器類はすべて洗ってあるから大丈夫。あとは……。
改めて部屋を見渡す。散らかってはいない。特別に綺麗とも言えないけれど。
これなら坂城を招き入れても大丈夫だと思い、ほ、と息を吐き、颯馬はベッドへ戻って腰を下ろした。
そのまま動かずにぼんやりしていると、インターホンが鳴った。ベッドから降りて玄関まで駆けていって、すぐさまドアを開ける。
「バカ、ドアは確認してから開けろって」
中に入ってドアを閉めた坂城に、颯馬は抱きついていた。
坂城の手が颯馬の頭を撫でる。坂城の胸に額を押しつけ、颯馬はふてくされたように呟いた。
「……来なくてよかった」
「あ、せっかく来たのにそういうこと言う? おまえ」
「だって」
「それに、言ってることとやってることが全然違うけど?」
「……だって」
「だって何?」
「先生、明日仕事だろ」
「そうだよ」
「……すぐに、帰らなきゃだめなんだろ」
「そのつもりではいるんだけどね」
さらに力を込めて抱きしめると、坂城が深く長く息を吐いた。
「……朝までいてもいいけど」
「……」
「けど、それならそれで手出さない自信ないけど、いいの?」
「……」
手を出すという言葉の意味がわからないわけではない。それを受け入れる度胸も覚悟もない。けれど、朝まで坂城の腕の中で甘えていたい。
埋めていた顔を上げ、颯馬は小さく頷いた。
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