36 / 62

10-3

 甘やかされることに慣れろと言った坂城の言葉通り、颯馬は少しずつこの関係に慣れていった。最初は遠慮がちだった態度も徐々に甘えたものへと変わり、キスがしたいと言う回数も増えた。坂城の手に自分から触れてくるようにもなったし、頻繁に抱きついてくるようにもなった。  坂城が初めて颯馬の部屋に泊まった日、同じく初めて名前を呼んだ。どうやらそれが相当嬉しかったらしく、その週末にふたりで出かけた時に颯馬は一日中もごもご言っていた。坂城の名前を呼ぼうとしているらしい。  俯いては考え込み、うん、と頷いて顔を上げて坂城を見る。それから口を開こうとして頬を赤くし、また俯く。颯馬はそんなことばかりを繰り返していた。  颯馬がしたいと言ったデートは、散々悩んだらしいが結局はドライブをして映画を観ることになったのだが、正直その内容はよく覚えていない。坂城にまた一歩近付こうと悪戦苦闘している颯馬が愛らしくて、その様子ばかりを見ていたからだ。  結局その日は一度も名前を呼ばれることはなかったし、颯馬はいまだに坂城を先生と呼んでいる。  一度面と向かって先生の名前を呼んでみたいと言われたことがある。呼んでみたら、と返した坂城に、颯馬は小さな声で和孝さんと口にした。それも悪くないが、やはり先生と呼ばれた方がしっくりくる。颯馬も実際に呼んでみたら自分が思っていた以上の照れがあったのだろう。今までにない程に頬を赤くしてやっぱりもうしばらくは先生と呼ぶから、と宣言された。  颯馬が自分に夢中になっているのが手に取るようにわかると、坂城の胸には充足感が広がっていく。  もっと、もっと。  颯馬のすべてが坂城に染まっていけばいい。それだけを願い続けて、もうすぐ夏になる――。 「先生、アイスどっちがいい?」  冷凍庫を漁っていた颯馬が顔を上げ、両手にひとつずつアイスバーを持って振り返る。 「何があんの?」 「バニラかチョコ」 「あれ、この前オレンジの買わなかった?」 「それ昨日俺が食べちゃった」  ごめん、と言って萎れる颯馬を笑いながら、坂城はソファから立ち上がる。煙草を咥えたままキッチンへ足を向け、颯馬の傍へ歩み寄った。 「じゃあチョコ」 「先生チョコレート好きなの? 甘いものそんなに好きじゃなかったと思ってたけど」 「チョコは別。酒とも合うし」 「そうなんだ」  お酒飲んでみたいなと呟く颯馬からチョコレートを受け取る。袋を開けた颯馬がバニラを頬張った。  冷房の効いた部屋。半袖を着ていても颯馬の首筋に汗が浮いている。こう暑いならかき氷買うべきだったよね、と言いながら颯馬がソファへ歩いていってどさりと座った。  坂城の部屋で過ごすことにも、颯馬はもうすっかり慣れている。  ふかしていた煙草を消して坂城も包みを開けてチョコレートバーを齧る。颯馬の言う通り、こういう日はかき氷の方がいい。  カーテンを開け放した窓の外は陽炎が揺れていて一目見ただけで気温の高さがよくわかる。南の空には真っ白な積乱雲が見るたびに大きくなっていく。夕方には雷雨が来るかもしれない。それを口実にして颯馬はまたここに泊まっていくだろう。  休みの日でも、休みでなくても、颯馬が坂城の部屋に泊まることも多くなった。眠いだの帰るのが面倒だの、颯馬は理由がないと泊まってはいけないと思い込んでいるらしく、何かしらの理由をつけてここで朝まで過ごそうとする。泊まりたいから泊まるって言えばいいのにという坂城の言葉に颯馬は頑なに首を振っていた。 「颯馬、夏休みそろそろだろ?」 「うん」 「お盆は? 実家に帰んの?」 「帰って来いとは言われてるけど、何とか日帰りできるようにしたい。何でこの距離で帰省しなきゃならないのかわかんないよね」  一時間もかからない距離なのに、と颯馬が膨れ面をする。坂城もソファに戻って腰を下ろした。 「課題っていう手はもう使っちゃったし、そもそもお盆の時期に課題するとかちょっとバレバレの嘘だしなぁ。こう考えるとお盆が潰れるような用事ってないよね」 「友だちと旅行に行くとかは?」 「友だちっていう時点でだめ。あの人の中じゃ友だちイコール遊びだから。断れ、キャンセルしなさいって言われて終わりだよ」  先生、一口ちょうだい、と言われてアイスバーを颯馬へ差し出す。一口と言いつつ二口齧りついた颯馬に、坂城は低く口を開いた。 「……音楽史同好会の合宿に同行する、とかは?」

ともだちにシェアしよう!