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「合宿?」
「そう」
「するの?」
「しねぇよ。けど資料集めとか講義のアシスタントとか、人手が足りなくて卒業生が手伝うことになったからって理由なら、おまえの兄貴も遊びとは判断しないんじゃない?」
「……学校に問い合わせたりしないかな」
「そこまで執着すんの?」
驚いた声を上げた坂城に、颯馬が眉を寄せて口を尖らせる。
「わかんない。けど問い合わせたら一発で嘘だってバレるよね」
「まあ、この手を使うなら問い合わせて来ないことに賭けるしかないだろうな」
考え込む颯馬の頭に手を乗せ、坂城はアイスバーを食べ切った。
大人として、颯馬が家族に嘘を吐くことに対してすべてを容認しているとは言えなかった。けれど、颯馬に嘘を吐くことを勧めたのは坂城自身だ。その理由はやはり、颯馬の塞ぎ込んだ顔を見てきたからだろう。そして、坂城の傍で兄のことを忘れて年相応にはしゃぐ颯馬の姿も見てきている。
繊細で内向的な颯馬にとって明るく笑える時間は坂城が想像するよりもずっと少なく貴重だ。その時間を増やしてやりたいと坂城は思い、颯馬自身も兄の呪縛から逃れたいと願っている。一般的に嘘は良くないものだと言われるだろうが、心を守るためなら仕方がない。坂城はそう思っている。
「――んっ!」
不意に颯馬が悲鳴のような声を上げた。視線を向けると、棒を咥えた颯馬が顔の下に手を添えて何やら慌てている。
「溶けた! 落ちた!」
颯馬の手のひらの上に一口分のバニラアイスが落ちていた。しばらくの間食べずに考え込んでいたせいだ。唇の端からも溶けたバニラが伝っているし、指の間からも雫が落ちそうになっている。
慌てる颯馬に苦笑しながらティッシュペーパーを数枚引き抜き、手を拭いてやる。ありがと、と小さく礼を言った颯馬の顎に唇を寄せ、坂城は伝い落ちたバニラを舐め取った。
そのまま貪るようにキスをする。ソファに押し倒し、上から覆い被さってさらに深く舌を差し入れ、絡ませる。
こういうキスにも、颯馬はだいぶ慣れた。坂城がキスをするとすぐに蕩けたような表情になるのが堪らない。
颯馬の舌をゆっくりと吸い上げて、坂城は唇を離した。
「連休だし、今日も泊まってく?」
「……雨、降るかな」
「天気予報だとそう言ってたね」
「……雷雨になる?」
「多分ね」
「傘、持ってきてないからなぁ。……泊まっていこうかな」
颯馬が口にした理由に思わず吹き出しそうになった。想像通りのことを颯馬は言った。
何度となく颯馬とふたりきりの夜を過ごしているが、まだ身体を繋ぐことはしていなかった。我ながらよく我慢ができるものだと感心したくなるが、キスには慣れてもそこから先の行為に颯馬がまったく慣れない。さすがに指一本で痛い、気分が悪いと泣かれてしまえば強引なことはできないだろう。
坂城の手が与えるものはすべて気持ちのいいものだと颯馬が心でも身体でも覚えるまで、ゆっくり進んでいくつもりだった。
「……先生」
颯馬が両腕を伸ばして甘えるように抱きついてくる。くしゃくしゃと髪を撫で回していると、不意に携帯電話が震えるくぐもった音がした。坂城のものはダイニングテーブルに置いてあるので、着信があってもこんな音にはならない。
「あ、俺」
ソファに寝転がったまま器用に腰だけを上げ、颯馬が尻ポケットへ手を突っ込む。
「誰? 実家?」
「んー……、あ、違う。勇大だ」
「そ」
颯馬の上から退き、キッチンへ足を進める。背後から通話に応える颯馬の声が聞こえてきた。
「勇大? うん、どうした?」
棚の上の煙草の箱を持ち上げる。
「え、そうなの? 知らなかった!」
一本引き抜き、口に咥えて火を点ける。
「教えてくれてありがとう、勇大。……うん、……うん」
深く息を吸い込み、ゆっくり吐き出しながら、坂城は換気扇のスイッチへ手を伸ばす。
「あー、じゃあ何か奢る。……え? 焼肉? バカ、やだよ、そんな高いのは無理!」
――だめだよ、颯馬。
「せめてファミレスの……。あ、それいいね、そうする?」
笑うな。
「じゃあ今度、学校終わって、どっちもバイトない日にでも。……うん、わかった」
俺の隣だけが、おまえが心から笑える場所でなければならないのだから。
笑顔で会話を続ける颯馬を見つめ、坂城はスイッチを押す。
吐き出した煙は上へ舞い上がり、換気扇の中へ吸い込まれて消えていった。
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