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坂城の部屋にだらだらと居座り続け、明日は実家へ戻る日なので颯馬は仕方なくマンションへ向かって歩いていた。
足を進めるたびに溜め息が零れ落ち、沈む心を加速させていく。見上げた空は夕焼けで綺麗なはずなのに、今はその赤い色が不安だけを煽る。
道の先にマンションが見えてきた。あそこに入ってしまえばすべてが終わりだ、そんな気がしてならない。入りたくない、帰りたくない、坂城の元へ戻りたい。
足が止まりかけたその時、マンションの前に見覚えのある車が停まっていることに気付いた。
「……」
心臓がどくりと痛い程脈打った。車の横で携帯電話を耳に当てて話しているあの男は――。
――兄だ。
「……何で?」
重たい足はそこで止まってしまった。呆然と立ち尽くす颯馬の口から震えた声が零れ落ちる。
聞こえるはずはないのに兄が颯馬の方へ顔を向けた。視線がかち合ってしまう。もう逃げられない。
「颯馬!」
兄が通話を切り上げて走り寄ってきた。
――どうして?
だって、颯馬が家へ戻るのは明日だ。明日の朝、兄がここへ迎えにくると言っていたのに。
「そんなに驚いた顔するなよ。予定より仕事が早く終わったんだ。おまえを迎えにいく時間が取れたから早い方がいいと思って。言っただろ、颯馬の帰りを母さんが楽しみにしてる。早く帰って喜ばせてやろう」
颯馬の目の前で立ち止まり兄が頭に手を乗せてきた。坂城がするのと同じように、いやそれよりも強く、気遣いのない力で髪を掻き混ぜられる。
やめてくれと言うこともできず、兄の手を振り払うこともできず、颯馬はただ硬直する。
「さすがに今夜はバイトもないだろ?」
「……う、ん、……ない、けど……」
「颯馬のことだからまだ荷物もまとめてないんだろ? 手伝ってやるよ」
「……荷物って言われても、……一泊二日だし、そんなにないよ」
「だからって着替えくらいは必要だろ。まあ、適当に店に寄って俺が買ってやってもいいけど」
「え?」
「バイトがないなら今から帰っても平気だろ? 支度してさっさと出発しよう」
腕を掴んで颯馬を引き寄せた兄がその瞬間険しく眉を寄せた。
「颯馬」
鋭い声が鼓膜を突き刺す。恐る恐る視線を返すと、兄が嫌悪感を露にした。
「おまえ、煙草吸ってるのか?」
「――え?」
何故そんなことを言われるのかわからない。戸惑い、考えて、それからはっとした。
服だ。
坂城の部屋にずっと置きっぱなしにしていた服を着て帰ってきた。今日は坂城も休みだったので朝からずっと一緒で、煙草を吸っている隣にいた。
その匂いが服に残っているのだ。颯馬はもう気にならなくなってしまったが、煙草を吸わない兄はすぐに気付いてしまうのだろう。
颯馬は慌てて兄から離れた。
「す、吸ってないよ! 未成年だし、そんなことはしない!」
「それならどうして煙草の匂いがするんだ」
「それは……、だから、あの、さっきまで……」
「さっきまで?」
「ファミレスにいて……、友だちとね、お昼一緒に食べて、そのまま課題の進め方とかスケジュールとか相談してたんだけど」
しどろもどろに口を衝いた言葉がいつの間にか止まらなくなる。自分がこんなにも嘘つきになるとは思わなかった。
「夏休みだし、混んでてさ、禁煙席空いてなくて。だから仕方なく喫煙席にしたんだよ、お腹空いてたし。だから、それで、そのせい、かな……」
納得したのかしていないのか兄が短く息を吐き、再び颯馬の腕を掴む。
「わかった。じゃあまずは部屋に戻って着替えること。その間に俺が颯馬の荷物まとめておくから」
「……あ、……うん」
颯馬は兄に腕を引かれてマンションの自室へ戻っていった。
玄関を開けて先に部屋へ入った兄が呆れたように笑う。
「何だ、俺が整えたままじゃないか」
「え? 何が?」
兄に続いて靴を脱ぎながら颯馬は問う。真っ直ぐにクローゼットへ向かう兄が振り返らずに答える。
「部屋だよ。ものは増えてないし模様替えもしてないし」
「ひとりで家具は動かせないよ」
「俺を呼べばいい。引っ越しの時に言っただろ? 何かあればすぐに呼べって」
颯馬は小走りで兄を追い越し、先にクローゼットを開けた。一泊二日分の荷物が入る鞄を取り出すと、横から兄の手が伸びてきてそれを取り上げる。
「それに好きなものを何でも買っていいとも言ったんだけどな。颯馬、インテリアに興味あっただろ。観葉植物とか」
「……そうだっけ」
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