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 17  坂城はたくさんの嘘をついてきた。  颯馬に対しても、きっと自分自身の心にも。  けれど今、坂城はひとつの嘘もついていない。  颯馬に対しても、坂城自身の心にも。  もうそんなことはしなくていいのだと言って、坂城は笑っていた。  偽りのない世界で互いのことだけを想い合う日々がこんなにも幸せで安心感のあるものだと、颯馬は初めて知った。 『――あ、颯馬? 久しぶり、元気か?』  電話に出ると懐かしい声が聞こえてきた。  亮介だ。春にエイジやマツたちと一緒に高校へ遊びに行った時以来で、たまに携帯電話へメッセージが届くことはあったが、話すのは久しぶりだった。 「元気だよ。そっちは? 今どうしてるんだ?」  携帯電話を耳に当てながら、颯馬はカーテンを閉めてソファへ戻る。カーテンレールの音が聞こえたのだろう、電話の向こうから訝しげな声が返ってきた。 『ん? 颯馬、今家?』 「あ、うん、そう。家の中」 『学校は? 平日だろ? もう授業終わってる時間なの?』 「……あ、えっと……」  曖昧に頷いた颯馬の声色から何かを察したのか、亮介が慌てて謝ってくる。 『悪い、体調崩してた? 寝てたとこ起こしたならすぐ切るよ。また今度でもいいし』 「平気。っていうか亮介はどうしたんだよ、学校は?」 『今日は午前だけ。颯馬のスケジュールがわかんないから、ダメ元で電話したんだけどさ』  カーテンの隙間から夕方の直線的な光が射し込んでいる。特にカーテンを閉めておけとは言われていないのだが、外が見えるのは何だか落ち着かない。街がせわしなく動いているこんな時間帯は特に。  夏休みも終わって秋になり、そろそろ冬の気配が見えてきた十一月下旬。学校には一度も行っていなかった。坂城だけのものになると決めたあの日からひとり暮らしの部屋にも戻っていない。  ずっと、ここにいる。  坂城の部屋に。  もう学校へは行かない、あの部屋も解約して荷物も処分して構わない、いつか実家へ顔を出すこともあるかもしれないけれど、自分の人生は自分で決めて歩んでいく。あまりにも自分勝手なことだとわかっているが、それをそのまま素直に両親に伝えた。颯馬の強い口調のせいか、反対はされなかった。納得はしてもらえていないだろうけれど。  反対だと噛みつく勢いで連絡してきたのはやはり兄だった。けれど、一度電話で話を聞いて以来、兄からの電話に颯馬は出ていない。あの日以上のことを話したいとは思えなかったし、必要もなかった。  坂城さえ傍にいてくれたらそれでいい。それ以外はどうでもいい。  いつかこの場所を兄は見つけ出してしまうかもしれない。その時のことはきっと坂城が考えてくれているだろう。何があっても坂城は颯馬を手放したりはしない。それは確信していたから、颯馬はすべてを坂城に預けている。  勇大とは夏休み前にカラオケで別れてから一度も会っていない。坂城に会うことを禁じられているし、電話で話すこともだめだと言われている。夏の間は何度か着信があったけれど、颯馬が無視し続けているとそのうち電話も来なくなった。勇大に会いたいとは思わない。ただ、少しだけ申し訳ないことをしたかな、といううっすらとした罪悪感だけが残っていた。喧嘩別れのようなものだったから。  けれど、やはりそれもどうでもいい。勇大はきっと颯馬のことなど忘れて、新たな友人と新たな恋を見つけるだろう。束縛のない、世間的にはきっと正しくて綺麗な形をした人生を歩んでいくはずだ。  坂城はひとつひとつ颯馬を世界から切り離していく。ひとつひとつ、颯馬を坂城だけの色に染め上げていく。  今は坂城が選んで買ってきてくれた服をまとい、坂城が選んだものを食べ、坂城のことだけを考え、坂城にだけ笑顔を見せ、坂城のための言葉を紡ぐ。そんな毎日だ。  幸せだった。これ以上ないくらいに。  兄と同じかそれ以上のことをされているのに根底に本物の愛情があるだけで、颯馬の動きを封じる鎖は甘い蜜となって蕩けていく。それを心地よいと感じる自分は異端なのだろうが、やはりそれもどうでもいいことだ。

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