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 生暖かい風に乗って腐敗臭が鼻を突き、小さな粒が頬を蹴っていく。視界を覆う布に手を掛け、(かぶり)を振りながら上へずらして取り、瞼をゆっくり上げると、そこには人骨と腐乱死体が転がる荒野が広がっていた。 『ごみ捨て場(ゲヘナ)』か。  子供の頃ゲヘナに棄てるぞと脅された事はあるが、まさか本当に棄てられる日が来るとは。実在していた事にも驚きだ。不要な者を棄てる場所なんて、都市伝説だと思っていた。  乾いた砂地に手を突き、気怠い躰を起こす。舌が疼いて閉じられない口から血の混じった唾液が落ち、黄色の中にひとつ、またひとつと赤い斑点を作る。顔を上げれば、不自然に立った1本の木の下に居る人が目に入った。  蹌踉めきながら立ち上がり、地面を擦る様に歩く。嗚呼、枷が重い。前に垂らした手の間で鎖が揺れる。散らした骨が鎖に引っ掛かって付いてくる。何も履いていない足の裏はジンと痺れ、途中から痛いのかどうか判らなくなった。  涎を垂らして近付く姿は、宛ら獲物を見付けた野犬の様に見えるだろうか。白い軍服を着て毅然と前を向いていた昨日迄の自分には想像も出来なかった姿だ。ミハさまが見たらどう思われるだろう。  肩で息をし、幹に凭れ掛かって座っている男を見下ろした。息はしている。が、死んだ瞳は口角を不気味に上げて天を仰ぐばかりで、恐らく、俺の存在にも気付いていない。  ――渾沌……。  何も映さず、何も聞こえなくなり、歩けば前に進んでいるつもりが、その場でグルグル回り続けているだけと聞く、精神の病。  見た所浮浪者のようだ。誰かに棄てられたのか、迷い込んでしまったのか。こうなってはもう助かる見込みはない。格好にそぐわぬ腰のミセリコルデに目を留める。しゃがんでそれをシースから抜くと、両手で強く握り、男の心臓を一気に貫いた。手が僅かにピクリと動き、静かに(こうべ)が垂れる。  歯を食い縛り、胸から引き抜いた反動で尻餅を突いて倒れた。荒らぐ息が舌を撫でていき、痛みに気を失いそうだ。霞む目に映った空は、愛する人の瞳の色と同じ蒼天。丸で見守られているようで心穏やかに、血に濡れた刃を自分の胸に立てる。不意に黒いものが視界に入り、目を上げると、貞操帯を嵌めた男の魔羅がそこにあった。 「何故君はあの浮浪者を殺した」  痩せこけた裸体に襤褸だけを首に括ってマントの様に棚引かせた男は、俺の手から取ったミセリコルデの刃先を木の下で息絶えた浮浪者に向け、正座をして覗き込み訊ねる。口を開くが、舌が痛くて喋れない俺を、静止した黒目がちの大きな目でじっと見た儘、ゆっくり上げた手に持っていた草の葉を毟り取りだした。そしてそれを口に詰め込み、歯で器用に磨り潰すと、口移しで寄越してきたのだ。  葉液が染みる。焼ける様な熱さと疼きで転がる俺は、四つ這いになって吐き出し、男を睨んだ。 「何をする」  目の前で茎がヒラリと揺れる。その向こうに、ぞっとする程真っ黒な瞳があった。 「傷に良く効く」  云う通り、痛みは嘘のように消えていた。効き目の早さも然る事ながら、一瞬で気配無く鼻先迄やって来るなど人間離れしている彼に驚かされる。  さて、と立ち上がって俺を見下ろす彼は、責めるでも軽蔑するでもなく、云うなれば素朴な疑問を抱いた純粋な子供の様に、再び同じ質問をした。 「何故君はあの浮浪者を殺した」  俺は、見る者を飲み込まんばかりの深い闇色の瞳を見返す。 「彼の精神は既に渾沌に侵され死んでいた。肉体の死を待つだけの苦痛から解放する為に殺したのだ」  時に生は苦痛となり、死は救いとなる。生きる力を失った者に取って、死は最後の希望だ。致命傷を負った者には躊躇わずその胸に刃を突き立てよ。ミハさまの教えだ。 「なるほど、素晴らしい」  骨に皮を張っただけの手が、肋が浮き出た胸の前で広げられる。 「果たして浮浪者は苦痛を感じていたのか。楽にしてやったと殺しを正当化する。素晴らしいエゴイズムだ」  天に云い、拍手する。力の無い音がミハさまを侮辱している様に聞こえて不愉快だった。 「では、何故君は浮浪者を刺したナイフで自分を刺そうとした。贖罪か」 「答える義理は無い」  立ち上がり、顔を上げると、視界一杯に頬の痩けた無表情な顔が映る。 「何故君は浮浪者を刺したナイフで自分を刺そうとした」  異様だ。後退りをすれば首を伸ばし、贖罪かと訊く。恐らく俺が答える迄この調子で繰り返し問うのだろう。 「違う。俺も孰れ浮浪者の様に渾沌に侵される。愛する人に捧げた躰を汚された挙げ句、愛した人の姿も声も忘れ、朽ちていくのならば、覚えている内に命を絶とうとしただけだ」 「なるほど、なるほど。素晴らしい。良く解らんが、素晴らしい」  又パチパチと手を叩く。俺を馬鹿にしているのだろうか。その彼が、俺に指を差し、云う。 「ベリアル。君の名だ、ベリアル。無価値。うん、良い名前だ」  眉を顰めて口を開く俺の顔から下がる指先が、手枷の鎖に触れる。刹那、手足の鉄枷が弾け飛んだ。すっと上がる腕が真横に伸び、今度はその先を指す。 「進め。番犬にデモゴルゴンに会ったと云えば、おめでとう。君は憧れた人に逢える」  何が起こって何を云っているのか、俄で理解が追い付かず、指差す方向へ顔を向けた。人だったものが転がる荒れた地が無限に広がるのみで、番犬どころか何かがあるとも思えない。 「デモゴルゴン? どう云う意味だ」  見ると彼の姿はなく、居た筈の場所に落ちていた襤褸が風に流され飛んでいった。

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