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第5話(社会人)

携帯会社に勤める二十四歳、独身の倉田。 彼には誰にも明かせない大きな悩みを抱えていた。 今日は九月二十九日金曜日、朝から快晴であり、平日にも関わらず客の出入りが多い。 それから昼時には先輩の大野先輩に近くのカフェで軽い昼食を誘われ、午後の販売業務に勤しむ。 夕方になり、定時になるも残業があって午後の十時頃、ようやく帰路についた。 これを一ヶ月経った現在でも、上に記載した九月二十九日の詳細を克明に覚えている。 覚えている、という言葉は倉田にとって語弊そのものだった。 覚えているのではない、忘れられないのだ。 日常生活の些細な出来事も詳細に記録され、削除することができない。 それはまるで、常に映画を放映され続けているような感覚だ。 日常の些細なことにとどまらず、忘れてしまいたい赤っ恥や失恋、悩みなど黒歴史だってほぼ全員と言っていいほど持っている。 それを何かの出来事に起因して放映される。 だから、その時の感情までが蘇るため、気楽に生きる、という方法が見いだせず今の今まで生きている。 この症状は非常に珍しいため、一部の学者の間では「超記憶症候群」と呼んでいる。 だから、この症状に気づき苦しんだ青春時代の経験を踏まえ、あえて大きな挑戦や過剰な期待はしない。 苦しむのはどうせ、自分だけ。覚えているのは自分だけ。 初恋の相手の名前から顔、声、仕草までもが未だに脳内にインプットされている。 当の本人は倉田のことなど忘れても歯牙にもかけないだろう。 しかし、倉田はそのことに傷付いたりもする。 覚えているのは自分だけ、相手は自分のことを大して気にもとめていない。それは、自分に常人の脳内メモリーに入れるほどの価値がない、からなのだと思ってしまう。 その「超記憶症候群」によって引き起こしたものだと思われるうつ病も、進行が早いと精神科医に舌を巻かれたこともあった。 だから、二十四歳の倉田は記憶が残り始めた中学生の頃から、休みなく脳内で自分の人生という名の付いたドキュメント映画が放映されて続けている今、独身なのである。 一つは、恋人に見せたくない格好悪いところを見せてしまった時の自尊心の決壊が怖いからだが、もう一つ、これが大きな要因の「忘れられること」だ。 倉田にとって過去も今と同じ時制の「現在」だ。 だから、何より相手に「忘れられること」を嫌い恐れている。 携帯会社は常に客と向き合い契約を結ぶ仕事だ。客の繊細な表情の変化まで鮮明に覚えているが、そこでした失敗は、もちろん映像として度々放映されているが、不思議な事に接客の仕事は逆に傷が浅く済み、安心すらも覚えほど。 人間関係も浅いほうが傷はあさくて済む。 その逃げ道を知ってしまったが最後、独身を拗らせる結果となってしまった。 今日も味気のないドキュメントという言うにふさわしくない映画が放映されている。 今日も昨日に続き、難癖を言いにやってくる客の対応にほとほと困り、やっとその客が帰ったかと思えば、すぐに次の客の応対を頼まれ――。 「・・・・・・っ!」 倉田は絶句した。 しかし、平静で居なければならない、と自分を叱咤しどうにか営業スマイルというやつを繰り出す。 「機種変をお願いしたいんだけど」 「かしこまりました」 やはり、相手は机越しに対峙する倉田を見ても、なんの反応もなかった。 これが普通のことであろう。 このまま難なくやり過ごせば、一難は去る。 きっともうすぐその時の感情が蘇ってくる。 その想いに耐えられるかが問題となる。 倉田は忘れもしない十年前の五月十六日。 初めて好きな人ができて、それが男だったことへの不安感やそれでも彼を見かけたときの胸の高鳴りは、吐き気を催すほど強烈なものだった。 そして、その日見た、光景も激烈なものだった。 中学生という多感な時期に見せられた性行為のシーン。 それは倉田の初恋の相手と、運動部の田中岬という美女だと騒がれていた女子との性行為だった。 雪崩れる想いと、それでも頂上に残る好意がない混ぜになりグチャグチャになった。 自身の好意は無条件に煙たがられることは百も承知していたが、それ以前の出来事に対応しきれず、翌年の受験生になってからは、友達としての付き合いもやめてしまった。 高校もこの記憶力のせいで偏差値の高い進学校へと進学した。 それからは恋愛は来るもの拒まず去るもの追わずのスタンスだった。 それ故本気の恋愛、を経験したことがない。 だが、ここに来て、初恋の相手、吉武の何ら変わりない屈託のない笑顔に魅せられ、胸が苦しくなるのを確実に感じ、恐怖を煽っていく。 これからもっと苦しくなるのか、と。 しかし、仕事は放り出せないのが、大人の事情というもの。 なんとか契約までこぎつけ、退散願う、といったところで、彼吉武は倉田より幾分も伸びた背丈で見下ろしながら、優しく笑んで「俺は忘れてないよ、倉田」去り際に一枚の名刺を手渡し、店をあとにした――。

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