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伊織(6)
「それは……知らなかったとはいえ、無神経な質問をしてしまったね。すまない」
「いえ、昔の話ですから。気にしないで下さい」
――潤さんのことに比べたら、それこそ、昔の話だから。
「でも……それなら……たった二人きりの家族なら、余計に君をお父さんから引き離してしまうのは気がひけるな」
そう言って教授はまた前方に目を向ける。
やっぱり教授は、何とか僕が諦める方向に話を持っていこうとしてる。
「先生、僕はもう、貴方から離れませんよ」
一度は諦めかけた、あの時の切なさに比べたら、誰かの代わりでも教授の傍にいられるのなら。
「約束通り、今度こそあの家で一緒に暮らすんでしょう?」
ハンドルを握る教授の左手に、そっと自分の手を重ねて、端整な横顔をじっと見つめた。
たとえこの手を振り解かれても、教授に迷惑に思われたとしても、もう二度と諦めたくはなかった。
「……困ったね」
だけど教授は手を振り払ったりしなかった。
重ねた手を見つめながら、教授の手がくるりと裏返り、僕の手を握る。
「……それを言われると、俺は言い返せない」
信号が青に変わり、車は静かに走り出す。運転席と助手席の間で繋いだ手を離さずに。
そしてまた、静かな沈黙が流れていた。
僕はずっと、繋いだ右手に温かさを感じながら、教授の言った言葉の意味を考えていた。
車が県道を抜けて、海沿いの国道に入って行くと、教授は薄く窓を開けた。
「潮の香りがするね。この道を真っ直ぐに行けばいいのかな?」
さっき走った県道よりは交通量が増え、行き交う車のライトで道路が照らされて明るいけど、この辺りは店も少なく夜は静かな街だ。
道路に並行している真っ暗な海岸の先に、明るい光が集中している。
「あの明るい所が駅です。駅前の交差点で右に曲がって次の信号辺りで降ろして下さい」
「……いい所だね。海が近くて……」
「あの駅から直接砂浜に降りれるんですよ。夏はそこそこ賑わってます」
岬の父が、僕と暮らす為に買った家だった。
家に引きこもりがちの僕を、あの人は何かと海に連れ出した。
潮干狩りで二人では食べきれないくらい大量のアサリをとったり、あの人はそれまで経験もなかったくせに、僕を釣りに誘ったりもした。
もちろん、魚なんて全然釣れなかったんだけど。
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