20 / 138

伊織(6)

「それは……知らなかったとはいえ、無神経な質問をしてしまったね。すまない」 「いえ、昔の話ですから。気にしないで下さい」  ――潤さんのことに比べたら、それこそ、昔の話だから。 「でも……それなら……たった二人きりの家族なら、余計に君をお父さんから引き離してしまうのは気がひけるな」  そう言って教授はまた前方に目を向ける。  やっぱり教授は、何とか僕が諦める方向に話を持っていこうとしてる。 「先生、僕はもう、貴方から離れませんよ」  一度は諦めかけた、あの時の切なさに比べたら、誰かの代わりでも教授の傍にいられるのなら。 「約束通り、今度こそあの家で一緒に暮らすんでしょう?」  ハンドルを握る教授の左手に、そっと自分の手を重ねて、端整な横顔をじっと見つめた。  たとえこの手を振り解かれても、教授に迷惑に思われたとしても、もう二度と諦めたくはなかった。 「……困ったね」  だけど教授は手を振り払ったりしなかった。  重ねた手を見つめながら、教授の手がくるりと裏返り、僕の手を握る。 「……それを言われると、俺は言い返せない」  信号が青に変わり、車は静かに走り出す。運転席と助手席の間で繋いだ手を離さずに。  そしてまた、静かな沈黙が流れていた。  僕はずっと、繋いだ右手に温かさを感じながら、教授の言った言葉の意味を考えていた。  車が県道を抜けて、海沿いの国道に入って行くと、教授は薄く窓を開けた。 「潮の香りがするね。この道を真っ直ぐに行けばいいのかな?」  さっき走った県道よりは交通量が増え、行き交う車のライトで道路が照らされて明るいけど、この辺りは店も少なく夜は静かな街だ。  道路に並行している真っ暗な海岸の先に、明るい光が集中している。 「あの明るい所が駅です。駅前の交差点で右に曲がって次の信号辺りで降ろして下さい」 「……いい所だね。海が近くて……」 「あの駅から直接砂浜に降りれるんですよ。夏はそこそこ賑わってます」  岬の父が、僕と暮らす為に買った家だった。  家に引きこもりがちの僕を、あの人は何かと海に連れ出した。  潮干狩りで二人では食べきれないくらい大量のアサリをとったり、あの人はそれまで経験もなかったくせに、僕を釣りに誘ったりもした。  もちろん、魚なんて全然釣れなかったんだけど。  

ともだちにシェアしよう!