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伊織(7)

 過ぎた日々を思い出していると、明るい駅前の交差点が近づいてくる。 「この信号を右だね」 「はい……」  ああ……もう家に着いてしまうんだ。  信号は青で、車は止まることなく交差点を右折していってしまう。 「あの次の信号の辺りで降りますので……」  ――停めてください――と、続けようとした言葉は、教授の声に遮られた。 「家の前まで送るよ。あの信号を左でいいのかな?」 「え……? あ、はい」  僕の家は左に曲がればすぐに見えてくるけれど、あんまり広い道じゃないから、車をUターンさせるのも悪いと思ったのだけど……。  でもこれで……あと数十秒は一緒にいる時間が伸びる。  あの信号が、赤になればいいのに。  そんな事を、目を瞑り強く念じるなんで、まるで子供みたいだけど。  車の速度が緩やかに落ちていくのを感じて目を開けると、本当に信号が赤になっていた。  せっかく少しでも時間が増えたのに、こんな時、何か気の利いたことを言えたらいいのに。  でも、やっぱ何も思い浮かばない。咄嗟に口から出たのは、教授に念を押すような言葉だった。 「今夜、父と話してちゃんと許可を貰えたら……明日の朝、先生の家に行ってもいいですか?」  少し間が空いたけど、教授は応えてくれた。 「……ああ……いいよ」  そこで信号が青に変わる。  教授は、左にハンドルを切りながら言葉を続けた。 「……でも明日は個展の最終日で、俺は朝から会場に行くんだけど……」  言われて僕も思い出した。そうだった、明日が最終日だった。  僕は事前に教授のスケジュールを調べていた。  本当なら、今日は他の予定が入っていた。だから、僕は個展に行く日を今日に決めたんだ。  最終日の明日は、教授は必ずギャラリーに来るから、あの絵を観に行くのは今日しかないと思ってた。  教授に会わない日時を選んだのに……。今、僕は教授の隣に座ってる。  教授が今日、あの会場に来てくれてよかった。教授に逢えて良かった。  今こうして、教授の傍に居られるのは、あの絵が……潤さんが二人を引き合わせてくれたような気がしていた。  そう考えた瞬間、高校の時の担任が言ってくれた言葉を不意に思い出した。  ――『運命の糸は、無理やり手繰り寄せなくても、きっと繋がってると俺は思うよ』  そうだね……。今ならあの時言われた言葉の意味が分かるような気がする。  なら僕は、自然に身を任せようと思う。  教授が僕を……僕自身を愛してくれるようになるまで。  教授が僕と一緒にいる事に戸惑うのなら……今はまだ、教授と学生のままでもいい。 「――――岬くん?」 「あ、あぁ、すみません。そこの角の家です」  気が付けば、もう目の前に僕の家が見えていた。  教授は家の前に車を寄せて、シフトレバーをパーキングに入れる。 「……明日の朝、もしも俺がもう出ていたら、この鍵で中に入っててくれるかい?」  そう言って、キーホルダーから外した家の鍵を、僕の目の前に差し出した。

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