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伊織(9)

 僕には二人の父親がいる。  ひとりは、僕が生まれた時からずっと傍にいてくれた人。母さんを愛して、僕を育ててくれた“父さん”。  そしてもうひとりが…… 「おかえり、伊織」  リビングに入っていくと、カウンターキッチンの向こうから、明るい笑顔で迎えてくれる。  僕が生まれる前に、母さんの恋人だった人。 「ただいま、カズヤさん」  カズヤさんのことを初めて知ったのは、僕がまだ中学一年の時。とても暑い夏の日のことだった。  カズヤさんも、僕の存在を長い間知らずにいたと言っていた。  突然目の前に現れたこの人を、最初は父親とは認めたくなくて、僕は長い間反発していたけれど……。  ――『でも僕は、貴方のことをこれからも父親だとは思えないかもしれないよ』  口から出ていった言葉は、本心かもしれなくて、そうじゃないかもしれなかった。  ――『それでもいいよ』  と、カズヤさんは言った。  ――『時々、おじさんの話に付き合ってもらえると嬉しいんだけど……』  ――『別に……構わないけど』  喜ばせようと思って言った訳でもなくて、本当にどうでもよくてそう言ったのに、カズヤさんは飛び上がらんばかりに喜んだ。  ――『本当に?』  そう言って、嬉しそうに顔を覗き込んでくるのが鬱陶しくて、適当に「うん」と、頷いてやっただけなのに、彼はギュッと僕を抱きしめた。  でも……だから今、僕はここにいる。 「カズヤさん、また玄関の鍵かけてなかったよ」 「え? ホント? おかしいな。閉めたと思ったんだけど……」  呑気な声で応えながら、カズヤさんは鍋を火にかける。  この人は、仕事の事以外は無頓着なところがあって、放っておくと着ていた服も脱ぎっぱなしだし、朝は弱いし、結構だらしないところがある。  ――僕がこの家を出てしまったら、この人大丈夫だろうか。  そんな心配が多少は頭を過るけど、でも僕がいなければ、本家の使用人が、またこの家に来て世話をしてくれるはずだから、きっと大丈夫。 「今日は、美味しい鰻が手に入ったから、うな丼だよ。食べるでしょ?」 「うん」  カズヤさんは、レストランの運営、企画などの飲食事業を中心とする会社の代表取締役社長という肩書きを持っているくせに、僕と暮らし始めた頃は、料理なんてやったことのない人だった。  最初の頃は、岬の家の使用人という人がやってきて、見の周りの世話は任せきりだった。  それが今では料理が趣味で、こうして仕事が早く終わった日は、僕よりも先に帰ってきて夕飯の支度をしてくれたりするようになった。

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