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伊織(13)

 グラスにビールが注がれるのをじっと見つめながら、僕はカズヤさんの次の言葉を待っていた。  カズヤさんは、ビールの泡の割合にも結構拘りがあって、家でゆっくり飲む時は必ずグラスは手に持たず、テーブルに置いて注ぐ。  最初は勢いよく泡を立たせながら。  そして荒い気泡の弾ける音が落ち着くまで待って、再び泡を持ち上げるようにゆっくりと注いでいくと完成だ。  グラスの縁からクリーミーな泡が綺麗に盛り上がる。 「じゃあ乾杯しようか」  カズヤさんの言葉に、僕はふっと口元を緩ませた。 「何に乾杯するの?」 「それはやっぱり……君の前途を祝して?」  カズヤさんのグラスと僕のグラスを軽くぶつけ合い、小さな音が鳴る。 「許してくれるんだ? 僕が教授の所に行く事を」  多少の後ろめたい気持ちは確かにあった。『教授の仕事を手伝いながら、絵の勉強をしたい』と言うのは、嘘じゃないけれど、それだけじゃないから。  だけど、カズヤさんは僕の欲しい言葉をくれる。 「それが伊織の進みたい道なら、ぼくは反対なんかしないよ」  そう言って、カズヤさんはグラスの半分までビールを一気に喉へと流し込んでいく。  喉が上下に動き、ごくごくと美味しそうな音が聞こえてきた。 「あーーっ、美味い!」  満足げな声をあげ、グラスをテーブルにコトンと置くと、暖かな色の瞳を僕に向けてくる。  初めて会った頃と全然変わらない、愛おしむような眼差し。 「ぼくの願いはね、伊織が幸せになる事。それは君の存在を初めて知ったあの日からずっと変わらないんだよ」  そう言って、カズヤさんは窓辺に飾ってある写真立てに視線を移す。  それは、たった一枚だけ僕の手元に残っていた、母の写真。 「きっと、君のお母さん……沙織も同じ気持ちだと思う」  写真の中の母に、僕は前よりもずっと似てきた気がする。  カズヤさんが僕を引き取ってくれる事になった時に、言ってくれた言葉を不意に思い出した。 ――『伊織は、僕と沙織のかけがえのない宝物です。沙織への愛と伊織への愛は違います。どちらも代わりなどありはしない』

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