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伊織(15)
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翌日、早朝から迎えに来た秘書の人と、カズヤさんは朝食も食べずに出かけてしまった。
『伊織、何かあったらいつでも帰ってきていいんだからね? ここは君の家なんだからね』
出かける間際まで、名残惜しむように、何度もそんな事を言っては僕をぎゅっと抱きしめた。
まるで、僕がどこか遠くに行ってしまうみたいなんだけど……。
『教授の家は大学の近くで、ここから電車で一時間かからないし、車なら15分くらいの距離なんだから、いつでも会えるよ』
僕がそう言うと、漸く安心した顔で『そうだったね』と笑っていた。
一人になった家で、身の回りの物を荷造りしていく。
この家に来た時は、本当に小さな鞄ひとつに纏まるだけの荷物だったけど、今回は画材道具も必要最低限の物は持っていかなければならない。
あまり荷物が増え過ぎたら、教授に迷惑をかけてしまうから、厳選したつもりでも、小さめのキャリーバックがいっぱいになってしまった。
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キャリーバックを玄関に下ろし、もう一度戸締りの確認をして回っていく。
2階の部屋を確認して階段を下りていくと、吹き抜けのリビングに明るい朝の光が心地良く射し込んでいる。
昨夜二人で夕飯を食べた食卓の椅子に腰を下ろし、小さく息をつく。
カズヤさんとは、ここで色んな会話をした。
最初の頃は、口数の少なかった僕に、根気強く話しかけてくれていたっけ。
休みの日は、会話がなくてもここでカズヤさんは新聞を広げたり、僕は好きな本を読んだりして過ごした。
料理は僕もあまり得意とは言えなかったけど、それまでキッチンに立つことのなかったカズヤさんが、教えてほしいと言うから、料理の本を買ってきて二人で頑張って作ったりもした。
――今ではカズヤさんの方が、レパートリーも多くて上手いけど。
たった5年だったけど、カズヤさんは優しい思い出をたくさんくれた。そのどれもを絶対に忘れない。
『僕がここを出たら、カズヤさんはまた実家で暮らすの?』
ここは僕を引き取るために買った家だったから、そうするのかなと思って訊いた僕に、カズヤさんは『まさか!』と、言って笑っていた。
『ここは伊織の家なんだから。無くなってしまったら君が里帰りできなくなってしまうだろう?』
まるで娘を嫁に出す父親みたいな事を言っていた。
でも……ありがとう。ここは僕の家だから、またすぐいつでも会える。
これは別れなんかじゃないんだから……。
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