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伊織(19)

「…………え?」  唐突に言われて驚いてしまったけれど、何の事を言っているのかは分かる。  瞬時に頭を過るのは……  ――『Aquarius(アクエリアス)』  身体に纏い付く青い水の色に溶けて消えてしまいそうに儚い……ガニュメーデース。  教授が今回の個展のメインにと描いたあの絵。  亡くなった弟への想いを込めて描いた魂の絵。  愛するものに心が囚われて、そこから離れることは簡単にはできない教授の気持ちが痛い程伝わってきた。 「あの絵は、岬くんをモデルに描いたんだよね?」  違う……あの絵の中のガニュメーデースは、僕にそっくりな潤さんだ。決して僕じゃない。 「……違います」  だけど、その事をこの人に説明なんて出来るわけもなく、僕はテーブルの上のアイスコーヒーに視線を落として、そこに刺してあるストローでグラスの中を軽く混ぜた。  一瞬の沈黙の中、カラン……と、氷が触れ合う音が小さく鳴る。 「え? そうなんだ? オレはてっきり……」 「そんなに似てますか?」 「うん。さっきギャラリーで初めて岬くんを見た時、すぐにあの絵を思い浮かべたよ」  ――そうかー、なんだ違うのかー。と、この話は軽く流してくれそうな雰囲気に安堵しかけたその時、朔さんは俯き気味の僕の顔を覗き込んでくる。 「岬くんがモデルをしたわけじゃないのなら良かった。オレちょっと嫉妬しかけてたから」 「え?」  ――――嫉妬?  驚いて顔を上げると、クールな印象の切れ長の目と視線が絡んだ。 「オレ、雨宮先生に憧れて、他の大学から院試受けに来たクチだからさ」  心臓がドキリと不安に反応した。  他の大学から院試を受ける。それは、べつに珍しくもなく、よくある話だと思うけど……。  ――まさかこの人も、教授のことを……。  思わず朔さんの視線から逃げるように、僕はまたグラスの中をストローでかき混ぜた。 「でもさー、まさかオレがガニュメーデースって、全然イメージじゃないしね」  少し笑いを含んだ砕けた声質に変わり、ホッと気が緩んだ瞬間、伸びて来た指先がフワリと僕の頬の辺りにかかる髪に触れた。 「…………っ」  思わず身体がビクっと反応して、頭を後ろに引いたけれど、退いた分だけ朔さんの手も伸びてくる。  2人掛け用の小さな丸テーブルは、元々お互いの距離が近かった。 「オレじゃ全然ダメだけど……」  僕の髪を薄く掬い、そのまま指にくるくると絡めながら顔を近づけてくる。 「でも岬くんなら、イメージぴったりだよね」

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