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伊織(22)
思いも寄らない教授の行動に、何が起きたのかすぐには分からなくて、一瞬固まってしまった。
肩に回された教授の手は力強く、お互いの身体がぴったりと密着している。
間近に感じる教授の息遣いや、スーツ越しの肌の温度に、心臓がドキドキと早鐘を打ち始めて、堪らず教授を見上げた。
「……せん、……」
――『先生』と言いかけた声が途切れてしまう。僕を見下ろす漆黒の瞳と目が合った瞬間に、教授が艶然と微笑んだから……。
その表情は、あまりにも大人の男の色気に溢れていて、僕の心臓の音は一層大きく響きだした。
顔どころか、身体中にじわじわと熱が広がり火照っていく。
同時に、――こんなところを誰かに見られたら……と、不安な気持ちも押し寄せてくる。
傍から見たら、ただ肩を組んでるだけに見えるかもしれないけれど。
少し前に解散したから帰った人もいるし、朔さんの大きなバンに隠れて、残っている他の院生達は気付いてないかもしれないけれど。
恐る恐る目の前に立つ朔さんに視線を移すと――目が合ってしまった。
ほんのり頬が赤く、切れ長の目を見開いていた。
だけど、すぐに驚いた表情から、スッと無表情に変わり、それから何かを察したように口角を上げる。
「そっか、そっか。雨宮先生に送ってもらえるなら安心だね」
何ごともなかったかのように、朔さんは笑いながらそう言ったけど、その笑顔はどこかぎこちなく、作っている感じがした。
「じゃ、まず先に先生の家っていうことで!」
「ああ、頼むよ」
朔さんは、院生の人を一人助手席に座らせて、エンジンをかける。
「じゃ、行こうか」
肩に置かれた手に促され、僕は教授の車に乗り込んだ。
教授の車が先に駐車場から道路へと走り出し、朔さんのバンが後に続く。
時刻は18時を回ったところ。
梅雨が明けたばかりのこの時間は、まだ空が明るい。
――『雨宮先生に送ってもらえるなら安心だね』
こんなに明るいのに、何が安心なのかは分からないけど、そう言った時の朔さんの作ったような笑顔が頭から離れなくて、小さく息を吐いた。
「どうした?」
信号が赤で、車が緩やかに停まり、教授が僕へと視線を向ける。
「……いえ、ちょっと心配で……」
「朔か?」
教授に問われて、僕は小さく頷いた。
「あの人、気づいたんじゃないでしょうか……」
――教授と僕の関係を……と続けそうになったけど、やめた。
教授と僕の関係って何? 恋人とは呼べないし、ただの教授と学生でもなく、曖昧で不確かで分からない。
ただ、僕が教授のことが好きで……好きで、傍に居たくて。でもそれだけじゃなくて、触れてほしくて、教授に触りたくて、抱きしめてほしくて。
全部、僕が欲しくて傍にいる関係。
そんなことを考えて、膝の上で握りしめた拳に、不意に教授の手が重なった。
驚いて隣を見上げると、艶然と微笑んで見つめ返される。
「それはそうだろう。朔が気付くようにワザと言ってやったんだから」
さっきと同じ、大人の色気が溢れた表情と、教授のその言葉に、また心臓がうるさく騒ぎ始めた。
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