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伊織(25)
「疲れたかい?」
「いえ大丈夫です。今日は色々と勉強になりました」
言葉を交わしながら、二人で玄関を入っていける。たったそれだけの事が、すごく嬉しい。
前を歩く教授を追いかけるように、少し早足で距離を縮めた。
「僕も、早く院生になりたいと思いました」
朔さんを見ていると、やっぱり院生の方が教授との距離が近いと思う。
それがちょっと羨ましくて、嫉妬してしまった。
思った通りに正直に言うと、教授が足を止めて振り向いた。
「学内推薦、受ける気になったんだね? 受験登録票は用意してあるのか?」
「はい。先生の研究室に入りたいです」
本当は昨日までは迷っていたけれど、締め切りがあったので登録票だけは学科主任教員から貰ってあった。
あとは、希望する教授の署名と捺印を貰って、成績判定が通れば、9月の面接を受ける許可がおりる。
「成績は優秀。毎年参加するコンテストには1年の時からずっと入賞し続けて、3年の時の学内コンテストでは最優秀賞を取ってたね」
「え……っと、……はい」
「それなら、不合格になる要素は何もないね」
そんな細かいところまで知ってるとは思わなくて驚いている僕を見て、教授は口元を緩めた。
「じゃあ夕飯は、外で食べよう」
「…………え? え? 夕飯?」
学内推薦選抜の話と夕飯は、どんな関係があるのかと、思わず聞き返してしまった。
「岬くんを送って行くと、朔に言ってしまったから、彼が帰りにこの道を通った時に俺の車があったらマズいだろう?」
それは……そうかもしれないけど。
「本当はね、岬くんとの関係は、誰に知られても大して問題ないと思ってたんだ。だけど推薦を受けるのなら、少し注意はした方がいいかもしれないね」
ああ……そうか。そうかもしれない。
例えば、成績にしても受験にしても、教授に特別扱いして貰ってると思われるのは避けた方がいい。
噂が一人歩きしてしまうと怖いという事を、僕はよく知っていたじゃないか。
もう、あんな思いはしたくないし、教授にも迷惑をかけてしまう。
「……そうですね。僕もその方がいいと思います」
「じゃあ、このまますぐに出掛けよう」
教授は『岬』の絵を上り框に置きながらそう言って、ふと、視線を玄関の片隅に向けた。
「……あっ、それ、すみません。僕の荷物なんです」
すっかり忘れていたけれど、昼間ここに寄った時に、取り敢えずそのまま置いておいたキャリーバッグがそこにあった。
「荷物、これだけ? 少ないね」
僕はこれでも多いと思ったんだけど……。
「じゃあ、帰ってきたら、岬くんの物を使いやすいように片付ける場所を作らないとね」
にっこりと笑みを浮かべて、言ってくれた言葉が嬉しくて、僕の口元も緩んでしまう。
「はい」
今日から、ここで教授と二人きりの生活が始まるんだ。
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