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伊織(26)
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食事をして家に帰ってきたのは20時を過ぎた頃。
夜になると、竹ひごと和紙でデザインされたシーリングライトの光が、シェードをやわらかく透過して、八畳の部屋全体を優しく照らした。
部屋の中や広縁の所々に、さりげなく置かれている間接照明も、落ち着いた空間をつくり出している。
「良かったら、これを使うかい?」
キャリーバックから出した荷物を整理しようと畳の上に並べていると、教授がそう言って部屋に置かれている整理ダンスに視線を向けた。
抽斗の四隅に飾り面を施したアンティークな雰囲気のそれは、そこにあることに気が付かないくらいにこの部屋に馴染んでいるけれど、昨日まではここには置いてなかったと思う。
「他の部屋に置いてあった物だけど中は空だから。着替えやちょっとした小物とかを収納するのにどうかな?」
「え、いいんですか? 先生は使わないんですか?」
抽斗が多くて、収納力がありそうだけど。
「俺の服は全部2階のアトリエの隣にクローゼットがあるから。岬くんもハンガーに掛けた方がいい服は、ちょっと不便だけど2階に置いておくといいよ」
ありがとうございます。と言って、一番下の抽斗を開けてみると、昨日僕が着ていた服が綺麗に畳んでしまってあった。
「あ……これ、洗濯してくれたんですね。すみません」
すっかり忘れていたことに、申し訳なくて恥ずかしくて、俯いてしまった僕に、教授は「気にしなくていいよ。ついでだから」と言って微笑みかけてくれた。
「画材も持ってきたんだね」
「あ、はい」
畳の上に並べた画材や本などに手を伸ばしながら、「これも2階に置いておくといい。アトリエに岬くんのスペースも作らないとね」と言ってくれる。
「え? いいんですか?」
驚いて訊き返すと、教授は愉しそうに笑いだした。
「君はさっきから、気を使ってばかりだね。いいんだよ遠慮なんかしなくても」
そう言って、頭を撫でてくれる大きな手の下で、あまりの嬉しさに泣きそうになってしまう。
だって、教授の家のアトリエで、二人きりの空間で絵を描けるなんて夢のようで、自分で自分の頬を抓りたくなる。
「分かったかい?」
「はい」
「じゃあ、俺も手伝うから、早く荷物を片付けようか」
「はい」
何だかちょっと照れくさくて、顔が熱くなるのを自覚しながら、僕は持ってきた着替えをタンスの中へ入れていく。
「この画材は、全部2階でいいかな?」
「はい、あ……僕が持っていきます」
慌てて、画材に手を伸ばそうとした僕を、教授の声が止める。
「遠慮するなと、今言っただろう?」
言われて、顔がまた熱くなる。
「お、お願いします……」
「いい子だ」
漆黒の瞳が流し目をくれて、唇がふっと口角を上げる。
色気溢れるその表情に、僕はいちいち心拍数が上がり、一瞬で体温が上がってしまうことを、この人は知ってるんだろうか。
熱くなった顔を隠して、服をタンスにしまう作業に戻ると、教授はクスクスと笑いを堪えながら、画材を一か所にまとめ始めていた。
「……あ」
暫くして、後ろから小さく聞こえてきた声に振り返ると、教授は一冊の古い本を手にして、驚きの表情を浮かべている。
その本のタイトルは『至愛』。
著者は、鈴宮武志 。
「この作品……いつだったかな、高校の頃かな……読んだことがあるよ」
呟くようにそう言って、教授は懐かしそうに、本のページをめくる。
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