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伊織(28)
*
荷物の片付けを全部終えてから、交代で風呂に入った。
昨日は僕が先に入ったから今日は後からでいいですと言ったら、教授に「またそうやって遠慮する」と笑われたけど譲らなかった。
身体と髪を洗ってから湯船にゆっくりと浸かると、無意識に「ふぅ~」と長い溜息のような声が出てしまった。
昨日からまだ丸一日しか経ってないんだ。なんだか色んなことがありすぎて、すごく濃い時間だったと思う。
教授の家の浴槽は、四隅を銅の金物と釘で留めた、シンプルな構造のコンパクトな正方形のヒノキ風呂。
結構、年季の入った浴槽だと思うけど、手入れが行き届いているのか目だった汚れもなく、木の風合いが心地良い。
足を折りたたんでやっと入れる大きさだけど、浴室内にヒノキの香りが満ちていて、そのせいなのか暑い夏の夜なのにリラックスしすぎて長湯をしてしまった。
風呂場から洗面所を抜けると、掃き出し窓を開けた広縁に腰かけている教授の姿があった。
グレーのTシャツと麻素材のゆったりとしたパンツといったラフな部屋着スタイルが、いつもとはまた違って新鮮でかっこいい。
缶ビールを飲み干す横顔に見惚れながら傍まで歩み寄ると、気付いた教授がゆっくりと僕の方へ視線を寄越した。
「……伊織…………君も飲むかい?」
――――え……?
一瞬耳を疑ってしまった。
だけど、その柔らかく優しい声は、確かに教授のものだった。
「ちょっと待っていなさい」
驚いて立ち尽くしている僕の頭を撫でて、教授は台所の方へ行ってしまう。
僕は、その背中を見送りながら、へなへなと広縁に座り込んでしまった。
――『…………伊織。君の名前だね』
さっき父さんの本の話をしていた時も、確かにそう口にしてはいたけれど、あれは本の中の登場人物の名が“伊織”だったから。僕の名前を呼んでくれたわけではなかった……と思う。
でも今のは……。
「伊織……って……」
思わず、今教授が言ってくれた呼び方を小さな声で真似てしまって、慌てて自分の口元を両手で覆う。
──教授が、あの柔らかい声で、初めて僕の名前を呼んでくれた。
少しぎこちない感じの呼び方が、なんとなく擽ったくて、嬉しくて。
――――泣きそう……。
そう思った時には、もう……涙が溢れて零れてしまっていた。
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