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伊織(29)

「……伊織?」  不意打ちに、頭の上から柔らかい声が落ちてきて顔を上げると、教授が心配そうな表情で僕を見下ろしていた。 「先生……」 「どうした? なんで泣いてるんだ?」  僕の隣に腰を下ろした教授の細く長い指が、頬に伝う涙を拭ってくれる。 「……すみません、なんでもないんです」  慌てて、ゴシゴシと両手で涙を拭っていると「伊織?」と、また呼ばれて、どうしたらいいのか分からなくなってしまった。  そう呼ばれるのが、嬉しいのに、ただ“嬉しい”ことを伝えればいいだけなのに、どう言えばいいのか分からなくなって混乱していた。 「だって、先生が……、伊織ってっ……ぇ、呼ぶ、から……」  嗚咽まで漏れだして、上手く喋れなくなってしまう。 「……駄目だった?」 「だ、だめじゃな……ダメ……」  まるで子供のように、何度も首を横に振る僕の頭に教授の手が添えられて、引き寄せられる。  抗うことなく、そのまま目の前の肩先に額を押し当てると、Tシャツ越しに温かい肌の温度が伝わってきて、それでやっと僕は小さく息を吐き出せた。 「う……嬉しかったんです……」  漸くちゃんと言葉にすると、頭の上から小さく笑う声が落ちてくる。 「嬉しくて泣いてたんなら、良かった」  郊外に位置する住宅街の夜は静かで、どこかで虫の鳴く声が小さく聞こえてくる。 「……鈴宮先生の“至愛”は、高校の頃、何度も読み返したんだよ……」  ――ちょっと大人の心情を綴った内容が、高校生だった俺にとってはバイブルのように思えてね。  と、言葉を続けた教授を見上げると、不意に冷たい物を頬に当てられた。 「――冷た……っ」  さっき教授が取りに行ってくれた缶ビールだ。 「喉乾いたろ?」 「あ……はい。ありがとうございます」  受け取ったビールのプルタブを上げる音が、静かな空間にやけに大きく響いた。 「……愛することも愛されることも、どちらも難しいね。だけど主人公は、憧れていた女性の全てを受け入れて、その全てをこの上なく愛していた……」  僕は小さく頷いた。 「君は、とても愛されていたんだね」  ――――僕も、あの本を初めて読んだ時、そう感じた。  確かに、父さんは僕を愛してくれていたと……。本当の父親として。もしかしたら僕が生まれる前からずっと。  決して母さんの代わりなんかじゃなかった。  それは、この本を読んでから考えたことで、全部僕の都合のいい妄想かもしれないと思ってたけど……。教授にそう言ってもらえたら、この考えは妄想なんかじゃないって思えて安心できる気がしてくる。 「あの小説の中で、子供が生まれた時のシーンが一番好きだったな」  長めの前髪が一房下りて夜風にさらりと揺れる。その隙間から優しい眼差しに見つめられた。 「きっと君に名前をつけた時、二人はとても幸せで、君のことをこの上なく愛していたんだろうね。だから……」  教授が続けてくれた言葉に、胸が熱くなる。  ――――だから、俺も“伊織”という名前を、大切に呼びたいと思ったんだ。

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