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伊織(30)
「……嬉しい……」
教授が“至愛”を読んで、僕と同じように感じてくれてたことが嬉しい。
僕の名前を大切に呼びたいと言ってくれた気持ちが嬉しい。
“岬くん”じゃなく、“潤”でもなく、“伊織”と呼んでくれることが嬉しい。
名前で呼ばれることが、特別なものに思えてくる。
嬉しい涙が後から後から零れて止まらない。
「そんなに泣くと、明日目が腫れてしまうよ」
僕の目元を拭う綺麗な指先が、また涙で濡れてしまう。
「……すみません。寝る前にもう一度顔洗いますね」
泣きながら笑えば、教授も微笑みながら僕の頭を撫でてくれる。
「伊織、明日の予定は?」
まだ少しぎこちない呼び方が、やっぱりちょっとくすぐったい。
「明日は、受験登録票を出しに大学に行こうと思ってます」
さっき教授に署名と捺印を貰ったから、後は提出するだけ。
大学はほぼ夏休みに入ってるけど、そのついでに、アトリエで卒業制作の準備も進めようと思う。
「そうか。俺も大学のアトリエに行かないといけないから……明日も朝早いし、そろそろ寝ようか」
そう言って教授が腰を上げる。
「はい……。あ……」
僕も教授に続いて立ち上がろうとして気が付いた。手に持っている缶ビールの中身がまだ半分くらい残っている。なんだか胸がいっぱいで飲むのを忘れてしまってたんだ。
「まだ全部飲んでなかったのか」
そう言って、教授が僕の手から缶ビールを取り上げて、「これ、貰ってもいいか?」と訊いてくる。
「え? あ、はい! どうぞ」
「じゃ、いただきます」
もうだいぶぬるくなってるかもしれない缶ビールの飲み口に唇をつけ、教授は残りの半分をくっきりと浮き出た喉仏を上下させながら一気に飲み干していく。
自分の飲んでいたものを、教授が……と思うと、ちょっと胸の奥がきゅんとする。
湯上りの火照りは、もうとっくに治まっていたはずなのに、なんだか顔が熱くて、側にあったうちわで暫くパタパタと扇いで、さりげなく熱を冷ました。
*
教授が用意してくれた整理ダンスを置いた部屋に入ると、既に布団が二組敷かれていた。僕が風呂に入ってる間に敷いてくれたのだろう。
――良かった。一緒の部屋で寝てくれるんだ。
そう思って、ホッと胸を撫でおろす。もしかしたら教授は別の部屋で寝るのかもしれないと思っていたから。
「……すみません。なんか全部してもらってばかりで……」
「手の空いてる方がすればいいんだから、そんなに気にしなくていいよ」
教授は笑いながら、そう言ってくれるけど……。
「あ、明日の朝食は僕がつくりますね。先生、朝は和食派ですか? それとも洋食派?」
「つくってくれるのかい? それは嬉しいね。俺はどちらでもいいよ。でも冷蔵庫の中に、あまり食材は入ってなかったかもしれないな」
そう言いながら、教授が布団に身体を滑り込ませ、横たわる。
「何もなかったら、近くで美味しいモーニングをやっているカフェがあるから、そこに行こう」
「はい」と、応えて、僕も隣の布団を使わせてもらう。
和室に布団二組って、ちょっと旅館に泊ってるみたい。なんて考えると、また顔が熱く火照ってきてしまう。
だけど、微妙に離されている二組の布団の距離が、もどかしい。
「今日は疲れただろう? ゆっくり休みなさい」
「……はい」
「じゃ、電気を消すよ。おやすみ」
「……おやすみなさい」
枕元に置いた行灯風のスタンドライトが消されて一瞬真っ暗に感じたけれど、障子の向こうから入る月灯りの微かな光が、薄っすらと部屋を照らしていた。
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