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伊織(32)
「……伊織」
荒い呼吸を繰り返しながら、不意に教授が僕の名前を呼んだ。
「先生……?」
「すまない……。夢を見ていた……」
まだ少し声が震えているけれど、教授は背中から抱きついていた僕の手を宥めるようにポンポンと叩く。
(良かった……意識はしっかりしてる)
「大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だよ。それより……俺は……何か言ったりしなかったか?」
「……いえ……すごくうなされてましたけど……」
本当のことは言えなかった。あまりにも、その内容が辛くて。
――『……俺のせいで……俺のせいだ…………。潤……、潤、許してくれ』
教授と潤さんの間には、いったい何があったのだろう。
潤さんは、あの岬の崖から足を滑らせて海に落ちたと聞いていたけれど……。
「先生、すごい汗……」
教授の背中を支えると、じんわりと冷たい汗に濡れているのが、Tシャツ越しに伝わってくる。
枕元のスタンドライトを点けて顔を覗き込むと、額からは汗が吹き出し、こめかみから滴り落ちている。
「……あぁ」
額の汗を手の甲で拭う教授の目は虚ろで、何も映していない。
「僕、お水持ってきますね」
そう言いながら立ち上がろうとしたところを、教授が引き止めた。
「いや、いい。俺はシャワーでさっと汗を流してくるから、伊織は寝てなさい」
肩をやんわりと押されて、ゆっくりと背中が柔らかい布団に沈む。
「すぐに戻るから」
掠れた声で言い残し、教授は部屋から出て行ってしまった。
……トン、と音を立てて閉められた障子の向こうの影が、廊下を過ぎていく。
そしてその直後、部屋のすぐ側にある階段を上がっていく足音が聞こえてきた。
シャワーを浴びると言ったのに……。
着替えを取りに行ったのかもしれないと思ったけれど、何分経っても下りてくる気配がしない。
あんなに汗をかいていて、声も掠れ、顔色も悪かったし、喉も渇いているはずだと思う。
なのに、あの状態で何分経っても下りてこないのが心配だった。
寝てなさいと言われたけれど、じっとしていられなかった。
台所に行って冷蔵庫を覗くと、500mlのペットボトルに入ったミネラルウォーターがあったので、このまま持っていくことにした。
(汗も拭かないと……)
洗面所に寄って、棚からタオルを取り出してから、二階のアトリエとして使っている部屋へと向かう。
しんと静まり返っている部屋の前で、ノックするのを一瞬躊躇した。
引き戸が僅かに開いていたから。
中は薄暗く、小さなスタンドライトが一つだけ点いているようだ。
微かな物音が聞こえて、僕は戸の隙間からそっと中を覗き見た。
奥の壁に立てかけた大きな絵は、額縁が外されている。
“Aquarius ”だ。
その隣には、イーゼルに置いた“岬”の絵。
そして二枚の絵の前に立っている教授は、パレットに白い油絵具を大量に絞り出しているところだった。
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