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伊織(33)
(先生……いったい何を……?)
そう思ったのは一瞬だけだった。
教授が右手に持ったペインティングナイフで白の油絵具を分厚く掬った瞬間に、彼がやろうとしている事が分かってしまったから。
(止めなくちゃ……)
頭で考えるよりも早く、身体の方が勝手に動いていた。
持っていたペットボトルとタオルをその場に放り出し、勢いよく引き戸を開け放つ。
「先生!」
奥の壁際に立つ教授に向かって叫びながら、部屋の中へと飛び込んで行った。
ゆっくりと振り返った教授の漆黒の瞳は、やっぱり虚ろで何も映してなくて、僕の姿さえも認識できてないように思えた。
「先生! やめてください!」
元は続き間だった和室をリフォームで建具を取り払い、フローリングにしたアトリエだから、入り口から教授の立っている場所までは距離がある。
部屋の中央に置いてある、大きな作業台の横を駆け抜ける時に腕がぶつかって、その上にあった何かが倒れ、床に落ちる音がしたけど、気にする余裕なんか無い。
今の僕の目には、教授の右手に握られたペインティングナイフしか見えてなかった。
油絵具を分厚く掬ったペインティングナイフは、もう今にもキャンバスに触れて、青の絵を白く塗り潰そうとしている。
だけど、僕が突然飛び込んだからか、教授は動きを止めてくれていた。
「先生、駄目」
勢いのまま手を伸ばし、ペインティングナイフを持った手首を掴む。
「……伊織……何を……っ』
漸く教授の漆黒の瞳に、僕が映った。
「先生、何をしようとしてるんですか!」
右手でペインティングナイフを持っている手首を掴んだまま、左手は教授の腰に回し、縋り付く。
少しでも教授を絵から遠ざけたい。
「放しなさい、ただ絵を塗り潰すだけだ」
硬い胸板に頭を擦り付けながら押し切ろうとする僕の身体を、教授は無理矢理に引き剥がそうとする。
「どうして? どうしてそんな事するんですか」
揉み合う腕の中から顔を上げて訴えると、哀しみに濡れた漆黒の瞳が僕を見下ろした。
「……もう……、潤のことを忘れたい……。忘れないといけない……だから……」
そう言った瞬間、抗う力が一層強くなる。
教授が本気を出したら、僕なんかじゃ到底敵わない。だけど、どうしても譲れなかった。
「そんなこと、させない!」
だって、そんなこと言っちゃ駄目だ。忘れるなんて哀しすぎる。
「伊織! 危なっ――」
思いっきり、前傾姿勢で体重をかけた瞬間、反動で教授の手にしたペインティングナイフが、白の油絵具を散らせながら飛んだ。
遠くでカシャンとどこかにぶつかる金属音が響いた次の瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
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