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伊織(34)
「――あっ……!」
後ろへ傾いていく教授にしがみ付いたまま、僕のつま先は僅かに床から離れ、一瞬だけ宙に浮く。
教授が僕の身体を受け止めながら二、三歩後退り、ゆっくりと姿勢を低く落としていった。
ガクンガクンと自分の目線が低い位置へと落ちていき、フローリングの床が近くに見えた瞬間、ドンッと大きな音と共に、僅かな衝撃が身体に伝わってくる。
「……ッ」
教授は僕を抱きとめる形で、床に尻もちをついていた。
「せ、先生! 大丈夫?」
踏ん張って、ゆっくりと腰を落としたように思ったけれど、床にぶつかった時の音は大きかった。
「大丈夫だ。伊織は? 怪我はないか?」
「僕は大丈夫です」
教授が守ってくれたから。
背中に回った優しい腕が僕の身体を包み込んでくれていたから。
だけど、教授に怪我がなくて本当に良かった。床に手をついて腕を怪我したりなんかしたら……と思うと背筋に冷たいものが走る。
「ごめんなさい」
「大丈夫だから」
泣きそうになって、教授の胸に顔を埋めると、そっと背中を抱きしめてくれる。
こんな時でも、教授はこんなに優しい。その優しい人に、絵を塗り潰すなんて、させたくない。
愛した人を忘れさせたくなんかない。
「潤さんのこと、忘れたりしたら駄目ですよ……」
教授からすぐに返事は返ってこなくて、腕の中から見上げると、憂いを含んだ漆黒の瞳が困惑したように揺れていた。
愛した人の死を受け入れられるようになるには、時が過ぎるのを待つしかないのかもしれない。
――――でも……。
もしも僕が先に死んで、教授に『もう忘れたい』なんて言われたら……。そんなことを考えただけで、辛くて苦しくてどうしようもなくなってしまう。
「先生の傍には確かに潤さんが居たのに。その存在を忘れるなんて潤さんが可哀想……」
そう言葉を続けると、漆黒の瞳が一瞬だけ大きく見開かれ、みるみるうちに涙が溢れ出した。
本当は、潤さんのことなんか忘れて、僕だけを見てほしい。
心の片隅にはそんな思いもあることを自分で分かっているけれど、教授の心を癒やすことが出来るのなら、僕は僕でなくてもいい。
もしかしたら僕は、潤さんの代わりじゃなく、教授にそんなに愛されている潤さんになりたいのかもしれない。
「……泣かないで……」
漆黒の瞳から零れ落ちた涙を指で拭うと、大きな掌が僕の頬を包む。
「い…………」
“ 伊織”と言いかける声を遮りたくて、僕は教授の首に腕を絡め、その唇をキスで塞いだ。
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