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かりそめ(3)

「……伊織、着れたかい?」  不意に呼ばれて振り向くと、いつの間にか、すぐ傍に教授が立っていた。 「あ、はい。でもなんだか上手く着れなくて」  僕は慌てて教授から視線を外し、襟を整える振りをした。今考えていたことは、教授には知られたくない。  教授がこの上なく愛した弟に嫉妬しているなんて。もう死んでしまっている人に嫉妬しているなんて。  そんなことを考えていることが、顔に出てしまっていないか心配だった。  顔を上げることができない僕の胸元に教授の手が伸びてきて、細く長い指が浴衣の合わせを整える。  でも、きっちりと合わせてくれた襟は、教授のそれとは全然違っていた。 「とても似合っているよ」  ーーとても似合っているよ、潤。  僕にはそう聞こえてしまう。  教授とこういう関係になった時から分かっていた。僕はそれを承知の上でここに居るのに。  それでも……。  教授と学生の関係を崩さずにいた時、僕のことを『岬くん』と呼んでいた教授が、  初めて僕を抱いてくれた時は、『潤』と何度も呼んでいた教授が、  今は、ぎこちなくても『伊織』と、名前を呼んでくれることが嬉しくて、もしかしたら……と、つい少しばかりの期待をしてしまっている。  だけどその半面、もしも、これから先、――その呼び方に違和感がなくなる時がきたら……。そう思うと、言いようのない不安に襲われる。 「こっちへおいで。今夜は月が綺麗だよ」  先に行ってしまった教授に呼ばれて洗面所から廊下へ出ると、教授は掃き出し窓を開けた広縁に腰掛けていた。  夜空には、満月になる前の少し欠けた月が蒼白い光を放っている。  室内の広縁から屋外へ繋がる濡れ縁に、線香を焚いた蚊遣り豚が置かれていて、軒先の風鈴が微風に揺れている。  夜になってもまだ暑いけれど、それだけのことで幾分涼しく感じる。  教授の隣に腰を下ろすと、「飲むかい?」と、冷たく冷えた缶ビールを差し出してくれた。

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