63 / 138
かりそめ(5)
「……始まったようだね」
そう言って教授はゆっくりと立ち上がり、東の空を仰ぐ。
少し間を空けて、また音が聞こえてきた。
「……花火?」
雷鳴のように聞こえたその音は、今夜隣の町で行われている花火の打ち上げられる音だった。
「やっぱりここからでは、花火の端しか見えないね。二階だともう少し見えるはずだけど、上がってみるか?」
そう言って行きかけた教授の浴衣の袂を、僕は思わず掴んで引き留めた。
「……どうかした?」
「……あ、いえ……、僕はここで飲んでますから」
慌てて手を離したけれど、教授の瞳は窺うように僕を見つめてくる。
「……花火大会に行きたくなかったのは、人混みが苦手なせいばかりじゃなかったようだね」
そう言って、宥めるように僕の頭に手を置いて、教授はまた隣に腰を下ろした。
連続で上がる花火の音は、ここから距離はあるのに、まるで間近で上げられているように大きく聞こえて、僕は知らずに身を強張らせる。
「もしかして、あの音が苦手なのかな。じゃあ窓を閉めて中に入ろうか」
「いえ……大丈夫です」
違うんだ。音が怖いわけじゃないし、夏の夜空を彩る花火は本当に綺麗だと思う。
僕は、そっと教授の肩に寄りかかった。教授から僕の顔が見えないように。
過去の出来事も、もう僕の中では消化できていて、そのことがフラッシュバックするとか、そんな事もない。
だけど、どうしようもなく不安になるんだ。花火の夜には何かが変わってしまいそうで。
昨日まで幸せだと思っていた生活が全部嘘で、明日から現実に引き戻されるんじゃないかって。
また運命が違う方向に変わってしまうんじゃないかって。
「伊織? 本当に大丈夫か?」
ぎこちなく僕の名前を呼んでくれるのが、嬉しくて、少し擽ったい。
だけど、教授がそんな風に、少しずつ僕の存在を認めていってくれるのが怖いんだ。
だって僕は……教授が愛するただ一人の存在になりたい。だから……。
「……大丈夫です」
肩に頭を預けたまま、教授の細くて長い繊細な指に指を絡めてそう答えると、もう片方の手が僕の顎を掬い上げ、目を合わされる。
今、教授の瞳に映っているのは、僕? それとも……。
指の背で頬をひと撫でし、ゆっくりと教授の顔が近付いて、見つめ合ったまま唇を重ね合わせた。
ともだちにシェアしよう!