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かりそめ(5)

「……始まったようだね」  そう言って教授はゆっくりと立ち上がり、東の空を仰ぐ。  少し間を空けて、また音が聞こえてきた。 「……花火?」  雷鳴のように聞こえたその音は、今夜隣の町で行われている花火の打ち上げられる音だった。 「やっぱりここからでは、花火の端しか見えないね。二階だともう少し見えるはずだけど、上がってみるか?」  そう言って行きかけた教授の浴衣の袂を、僕は思わず掴んで引き留めた。 「……どうかした?」 「……あ、いえ……、僕はここで飲んでますから」  慌てて手を離したけれど、教授の瞳は窺うように僕を見つめてくる。 「……花火大会に行きたくなかったのは、人混みが苦手なせいばかりじゃなかったようだね」  そう言って、宥めるように僕の頭に手を置いて、教授はまた隣に腰を下ろした。  連続で上がる花火の音は、ここから距離はあるのに、まるで間近で上げられているように大きく聞こえて、僕は知らずに身を強張らせる。 「もしかして、あの音が苦手なのかな。じゃあ窓を閉めて中に入ろうか」 「いえ……大丈夫です」  違うんだ。音が怖いわけじゃないし、夏の夜空を彩る花火は本当に綺麗だと思う。  僕は、そっと教授の肩に寄りかかった。教授から僕の顔が見えないように。  過去の出来事も、もう僕の中では消化できていて、そのことがフラッシュバックするとか、そんな事もない。  だけど、どうしようもなく不安になるんだ。花火の夜には何かが変わってしまいそうで。  昨日まで幸せだと思っていた生活が全部嘘で、明日から現実に引き戻されるんじゃないかって。  また運命が違う方向に変わってしまうんじゃないかって。 「伊織? 本当に大丈夫か?」  ぎこちなく僕の名前を呼んでくれるのが、嬉しくて、少し擽ったい。  だけど、教授がそんな風に、少しずつ僕の存在を認めていってくれるのが怖いんだ。  だって僕は……教授が愛するただ一人の存在になりたい。だから……。 「……大丈夫です」  肩に頭を預けたまま、教授の細くて長い繊細な指に指を絡めてそう答えると、もう片方の手が僕の顎を掬い上げ、目を合わされる。  今、教授の瞳に映っているのは、僕? それとも……。  指の背で頬をひと撫でし、ゆっくりと教授の顔が近付いて、見つめ合ったまま唇を重ね合わせた。

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