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かりそめ(13)

「……え?」  教授は、僕の頬を伝う涙を指先で拭いながら、少し困ったように微笑んでいた。 「俺の家族も、結構複雑でね……」  掠れた声でポツリと零す。 「俺は潤をあの家から救い出したかった。ここで一緒に暮らすと約束していたし、潤も同じ気持ちだと思っていたから」  ――だけど、違っていた。  と、教授は辛そうに言葉を続けた。 「あの事故が起こったのは、潤を連れて実家を出て、ここへ向かう途中だった」  ――『兄さん、車を停めて。やっぱり僕は行かない。兄さんとは一緒に行けない』 (あ……)  その言葉を聞いて、僕は不意に思い出した。 (……そうだ。教授は最初からそう言ってた)  ――『“兄さんとは一緒に行けない”と、弟は言った』  でも、どうして潤さんは、教授と家を出ることを急に拒んだんだろう。 「潤は、母の愛人と身体の関係があったんだ」 「……え?」  予想もしていなかった言葉に驚きを隠せない僕を見つめて、教授は微かに苦笑を零した。 「俺は、あの男が、嫌がる潤に無理やり関係を迫っているのだと思っていた。なのに潤は家に帰ると言って車から降りて逃げたんだ」  ――『あの人のことを愛してるんだ。だから僕は兄さんとは行かない!』 「潤は泣きながらそう言っていたけれど、そんなこと、俺はどうしても信じられなかった。何か……弱みでも握られて脅されたりしてるんじゃないかって……」  もし本当に、潤の気持ちがあの男にあるのだとしても、母親の愛人となんて、不幸な未来しか見えなかった。  最愛の弟には、幸せになってほしかった――――だから追いかけた。  逃げる潤を連れ戻したくて、どこまでも、どこまでも。  そして、あの崖に追いつめてしまった。  北陸の初春はまだ気温も低く、風も強く、連日降り続いていた雨がみぞれとなって落ちてきていた。 「潤は……俺に捕まったら、もう二度とあの男には逢えなくなると思ったんだろう」  柵を越え、雨で地盤の弛んだ崖縁まで逃げていく潤に伸ばした手は届かなくて、足元が脆く崩れたその一瞬で、潤の身体は荒れた暗い海に落ちていってしまった。 「潤のことを愛していたよ。幼い頃からずっと……」  苦しそうに言葉を詰まらせる教授に、胸がぎゅっと絞られるような痛みを覚えた。 「――でも守ってやれなかった。俺のやったことはただ潤を追いつめただけだった。その日からずっと後悔に苛まれ、もしかしたら潤はどこかで生きているかもしれないと思い込むことで、やっと生きる希望を見出せたんだ」

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