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かりそめ(17)
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その日、東の空が白んでくる頃、教授はあの岬があるという北陸方面へ向けて車で出発した。
『明後日には帰ってくるよ』
今は誰も住んでいないという実家にも寄って、家の空気を入れ替えて少し掃除もしたいと言っていた。
だから僕も、それに合わせて、岬の家に二泊するつもりでいた。
玄関を出る前に軽く啄むような口づけをくれた教授に、思わず抱きついてしまった。
逞しい腕の中に、すっぽりと収まると、教授の匂いに包まれる。
――寂しいな。
たった二日離れるだけなのに、もうこんなに寂しい。
『伊織も、ゆっくり親孝行しておいで』
髪を何度も撫でながら唇を重ねられて、咥内に入ってきた熱い舌に応えて絡め合わせると、もっと離れがたくなってしまう。
最後にリップ音を立てて離れる唇を目で追うと、教授はクスッと小さく笑って僕の頬に掌を添えた。
『いってくるよ』
『いってらっしゃい……』
そう言葉を交わして、教授は玄関の引き戸を開けた。
教授の車が見えなくなるまで見送って、僕は踵を返して家の中に戻る。
すごく寂しいけれど、教授は必ず帰ってきてくれる。
想いが通じ合っている今なら、離れていても気持ちは寄り添って、相手のことを信じることができる。
心の中は、朝の空気と同じように澄んでいて清々しい。
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数日前に、お盆には帰ることを伝えると、電話の向こうからカズヤさんの嬉しそうな声が返ってきた。
『ホント? じゃあその日は予定を入れないで待ってるよ』
今日は仕事の予定も入れずに、家で待っててくれるらしい。だけどカズヤさんのことだから、きっと昼過ぎまで寝てるよね。
まだベッドで気持ちよさそうに、枕を抱きしめて眠っている姿を想像して、思わず口元が弛んでしまう。
あの人はなぜか、枕を抱きしめて寝る癖がある。
僕が起こしにいくと、いつもそうやって寝ているんだ。
前にそのことをカズヤさんに言うと、『伊織も同じように、枕を抱きしめて寝てる時あるよ』って言うんだけど、あの人が僕より早く起きることなんて滅多になかったんだから、僕にはそんな癖は無いと思う。
そんなことを思い出しながら、教授の家を出て駅までの道を歩いた。
荷物は殆どなくて、小さなボディバッグひとつだけ。
もうすっかり日は高くなっている。
お昼のこの時間を選んだのは、満員電車に乗りたくないから。ただそれだけだった。
お盆休みだから通勤通学で混むことはないだろうけど、休暇を利用して出かける人で混雑する可能性もあったから。
だけどその考えは甘かったことに、駅の前から溢れるほどの人の多さを見て、知ることになる。
――『事故のため、一部電車に遅れや運休が出ています…………』
同じアナウンスが何度も駅の構内に響く。
券売機の前で待つ人の列。ホームも人で埋め尽くされていた。
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