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かりそめ(19)
「――っ、すみません」
僕は顔を僅かに後ろに向けて、でも目が合わないように俯いたまま頭を下げた。
そうしている間にも、じっと探るような視線を感じる。
こういう時は、相手の目を見ない方がいいと、これまでの経験上、よく分かっているつもりだった。
「いや、全然大丈夫だから。気にしないで」
頭の上から、男が軽い口調で返してきて、僕は、俯いたまま無言で軽く会釈して、前を向いた。
背中には後ろに立つ男の身体が、微かに触れるくらいの近い距離。
僕の後に続こうとしていた中年の女性は、諦めたのか片方だけ踏み入れていた足を引いて、後ろに下がり、ドアが閉まった。
閉まったドアに身体を寄せると、僕の背中と男に間に僅かに隙間ができた。
だけど、電車が動き出すと、また背中に男の体温が近づいてくる。
「混んでるから、お互い様だしね」
男は、親し気に話を続けてきた。
「……そう、ですね……。でも本当にすみませんでした」
もう一度謝ると、「いいって、謝らなくても」と笑いを含んだ声と共に落ちてきた息が、僕の髪を揺らす。
「だけど、散々だよね。事故で電車が遅れるなんてね」
「……」
僕は、声は出さずに相槌を打ちながら、窓の外の流れていく景色に視線を向けていた。
「まぁ、今日はもう仕事は終わったからいいんだけど……君はこれからどこに行くの?」
あまり喋りたくはないけれど、足を踏んでしまったというのもあって、無視しきれない。
「……家に帰るだけです」
「へえ、じゃあ、時間あるならどこか遊びに行かない? せっかくこうして知り合ったんだし」
「いえ、急ぎの用があるので……」
“知り合ったんだし”って、ただ足を踏んでしまっただけなのに?
「でもさ……、」
相手が何か言いかけたその時、カーブに差し掛かった電車が大きく揺れて、それに合わせてひしめき合う乗客がこちら側に傾いて、僕の身体はドアのガラスに押し付けられた。
「ッ……、混んでるから、仕方ないよね……」
苦笑しながら囁くような声が耳元で響き、嫌な汗がじわりと全身から滲み出た。
男は、僕の背後から伸ばした左手を扉についていて、背中が彼の胸に密着してしまっている。それがカーブを抜けると、僅かに身体が離された。
だけどまだ、男の手は僕の顔の横の扉にある。
満員の車内は、人いきれでむせ返っていた。冷房は入っているのだろうけど、まったく効いていない。
次の駅からは、反対側のドアが開く。早くこの状態から抜け出したいけれど、身動きをすることもできず、途中で降りることすらかなわない。
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