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かりそめ(21)*

 さっき電車に乗る前に、一瞬だけ目が合った時と同じ。  じっと張り付くような、好奇心に誘われているような。そんな視線。そして今、男は目が合った瞬間、口角を上げた。  こういう視線を向けてくる相手は、目が合っただけで何故かこちらも興味を示していると思うらしい。だからなるべく顔を見ないようにしていたのに。  咄嗟に目を逸らしたことが、彼にとっては“OK”のサインだったのだろう。後ろで男の気配が変ったのが伝わってくる。  扉についている左手はそのままで、逆の右手がゆっくりと動き、撫で摩るように尻に触れてきた。その掌が、車内の暑さのせいで汗ばんでいるのが、コットンのパンツ越しにでも分かる。 「……っ、」  電車で遭遇する痴漢というものは、大抵、最初は触られているのか、それとも偶然当たっているだけなのか、分からないことが多い。でもこの男は最初から、こちらが分かるように触ってきてる。だから僕は、はっきりと拒否の意思を示した。 「やめてください。大きな声出しますよ」 「いいよ、やってごらんよ」  だけど男は、まったく怯むこともなく、掌が尻臀から太腿を滑り前に回ってきた。 「ッ、」  その動きを止めようとして、咄嗟に胸に抱えていたボディバッグを下へとずらしたけれど、下腹部とバッグの間に男の手を挟み込んだだけで、最悪の状況は変らない。 「でもさ、周りの人達はきっと、俺らのこと知り合いだと思ってると思うよ」  男はふっと耳元で笑いを零し、「試してみようか?」と小声で囁いた。 「――何をっ」  言いかけた僕の声を掻き消すように、男が周りに聞こえるような声で話し始めた。 「そんなに拗ねるなよ。電車降りたらアイス買ってやるからさ」  すると、ドア横の手摺り側に立っている二人組の女性が、こちらに背を向けたままクスクスと小さく笑う声が聞こえてきた。 「ほらね?」と、男がまた耳元で囁く。  男は最初からこれが狙いだったんだと、今更に気づいた。  だから、親し気に話しかけ、くだらない話を延々と喋り続けていたのか。 「彼女達は、もしかしたら“腐女子”ってやつかもしれないな。さっきから俺らのことを気にしてるの、気が付かなかった?」  ――周りには、俺達がじゃれ合ってるようにしか見えないんじゃない?   内緒話でもするように男の唇が耳を掠め、バッグの下の手が下腹部を柔らかく揉んでくる。思わず腰を引けば、自分から尻を男の身体に押し付ける形になってしまった。 「……!」  腰の辺りに男の主張を感じて、ぞわぞわと悪寒が背中に走る。 「ふふ、いい反応」  男は、電車の揺れに合わせながら、僕に腰を押し付け、前に回した手に力を入れてくる。 「……っ、嫌」 「君のも、ちょっと硬くなってきたね」  こんなの、絶対感じてるわけじゃないのに……。 「放せよ」  肘を後ろに引いて抵抗すると、男の声音が変わった。 「お前から誘ったくせに、嫌もクソもねぇだろ」

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