80 / 138
かりそめ(22)*
男の言葉に全身から力が抜ける。
(――誘ってなんか……)
悔しさと情けなさ、そして諦めが、頭の中をかき混ぜた。
――いつも、いつも、どうしてこうなるんだろう。
同性を好む人間なんて、どこにでもいる訳じゃない。なのにこうして引きよせてしまうのは、男の言う通り、きっと自分が悪いんだ。
最初にこの男と目が合った時から、こうなることは分かっていたじゃないか。それなのに、自分からこの電車に乗ってしまったんだから。
あの時、後ろに並んでいた中年の女性を、先に乗るように譲ってあげれば良かったのに。そうしなかったのは、こうなることを心のどこかで期待していたんだ。
どんなに取り繕っても、どこまでいっても、僕は僕のままだ。今までの自分の過去は、消えたりしない。穢れてしまった身体は最初には戻れない。
押さえつける力の弛んだバッグの下で、男の手が好き勝手に動き始める。
硬くなり始めている僕の形を確かめるように、ズボンの上から無骨な指がなぞり、掌でゆるりと擦り上げられて、否応なく反応してしまう。
「……っ」
呼吸が早くなり、酸素を取り入れたくて薄く開いた唇から吐息が零れ、後ろの男が笑う。
「お前、やっぱり男を知ってるだろ」
これはきっと、罰なんだ。
こんな僕が、教授の隣に居ていいはずがなかった。
なんで忘れていたんだろう。
(――――雨宮先生……)
しっかりと繋がっているはずの運命の糸が、指の間からすり抜けて消えていく。
――『君は穢れてなんかいない。無理に消す必要なんて無い。憶えておけばいい』
ふと、昔そう言ってくれた人の顔が、混乱した頭の中に過った。
――『そんな風に思うということは、そうしてきた事を後悔しているからだろう? それを分かっているのなら、君の魂は綺麗だと思うよ』
本当に、そう思っていいのかな。
教授は、僕が手を伸ばして、やっと届いた光だった……。
初めて本当に人を愛するって、どういうことなのか知ることができたんだ。
――『愛してるよ、伊織』
目を閉じて心を落ちつけると、少しぎこちなく呼んでくれる柔らかい声が聞こえてきた気がした。
「次の駅で降りるよな?」
低い声で囁きながら、男が両腕を回し、動けないように僕の腰を拘束する。ずっと身体に擦りつけられている男の主張は、さっきよりも硬くなっているのが、はっきりと伝わってきた。
「……嫌だ」
「なんだって?」
「嫌だって言ってるんだ! その手を放せよ!」
そうだ。本当に嫌なら、周りなんか気にしないで、もっと本気で拒否しなくちゃ駄目なんだ。
僕は、こんな男を自分から誘ったりなんかしない、絶対に。もう後悔なんてしたくない。
――――やっと掴んだ幸せを、手放したりなんかしない。
ともだちにシェアしよう!