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かりそめ(24)

「何電話に出てんだよ、来いよ!」  電車が完全に止まり、男の腕が僕の腰を引き寄せながら身体の向きを変えた。力尽くで降りるつもりらしい。  向こう側のドアが開くのが混み合う乗客の隙間から見えた。 「すみません、ちょっと通して下さい」  その扉の前から、こちらへ進んでくる人がいる。  上背があるから、周りの人よりも高い位置に顔がある。モデルみたいなオーラを出しながら微笑んだだけで、それまで押し合っていた乗客が一歩ずつ横にずれ、人ひとりが通れるほどの道が開かれた。  その人に微笑みを向けられて、頬を赤く染めている女性もいる。 「朔さん……」  伸びてきた朔さんの手が僕の腕を掴んで引っぱると、腰に回っていた男の腕の拘束が呆気なく解かれた。 「早くこっちおいで、降りるよ」  その後は、あっと言う間だった。朔さんに引き寄せられるまま、乗客の間をすり抜けて電車を降りると、すぐに後ろで扉が閉まった。  振り向く余裕も無かったけれど、男が降りてきた気配はしなかった。 「大丈夫? 顔が真っ青だよ」 「……ぁ、ありがとうございます。大丈夫です」  顔を覗き込んで心配そうに声をかけてくれる朔さんに、そう応えるのが精いっぱいだった。  全身が汗でぐっしょりと濡れていて、暑いのに鳥肌が立ち、脚がガクガクと震える。 「とりあえず、あそこに座ろう」  一人分だけ空いていたベンチに僕を座らせると、朔さんは近くの自動販売機でスポーツドリンクを買ってきてくれた。  手渡されたスポーツドリンクを一気に飲み干して、僕は長い溜息をついた。それでやっと気持ちが落ち着いてくる。 「すみません、迷惑かけてしまって……」  頭を下げてから、朔さんを見上げた。 「別に迷惑だなんて思ってないよ。でも良かった同じ電車に乗ってて」  朔さんは、前の駅から乗ってきたらしい。 「最初は、あの男の身体に隠れてて、岬くんがいるって全然分からなかったよ。でも、君が大きな声で抵抗してただろう? どこかで聞いたことのある声だなぁって思って……それで電話で確かめようとしたんだけど、電車が地下に入ってたからすぐには通じなくて焦ったよ」 「そうなんですか……」  きっと何度もかけてくれていたんだろう。だから電車が駅に入った瞬間に着信したんだ。 「本当に助かりました。ありがとうございます」  もう一度お礼を言って目線を下に落とすと、朔さんはしゃがみ込んで僕の顔を覗き込む。 「岬くんさ、なんでこんな混んでる電車に乗っちゃったの? 今日は雨宮先生は一緒じゃないの?」 「……え?」

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