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かりそめ(31)
玄関のドアを開けて「ただいま……」と言ってみても、家の中はしんと静まり返っていた。そっとリビングを覗けば、開け放たれた吐き出しの窓から入ってくる微風に、レースのカーテンが揺れている。
夏のこの時間は、まだ気温は高いけど、太陽が西側に隠れているせいか部屋の中は通り抜ける風が心地良い。
カズヤさんは窓の側のソファーで、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。
「相変わらずだなぁ……」
もう夕方だというのに、カズヤさんはまだパジャマを着ている。
「カズヤさん」
声をかけてみても、起きる気配がまったくしない。
昨日は遅くまで仕事をしていたのだろうか。疲れているのならこのまま寝かせてあげようと思い、カズヤさんの足元に丸まっていた薄いタオルケットをそっと身体に掛けてやった。
久しぶりのリビングをぐるりと視線を巡らせると、意外に綺麗に片付いている。
いつも脱いだ服は脱ぎっぱなし、読んだ本や新聞は出しっぱなしのカズヤさんが、こんなに綺麗を保てるはずがないのに。
おかしいな……。
と思いながら、洗面所に向かう。
手を洗いながら、ここも綺麗に片付いていることに驚いてしまう。
きっと洗濯物もためているはずだと思っていたのに、かごの中には何もない。バスルームを覗いてみると、そこもちゃんと掃除をしているようだった。
(――やっぱり、岬の家の使用人が来て、身の回りの世話をしてくれていたんだろうか)
それならそれで、僕も安心できるんだけど……。
その時、玄関の鍵が開く音がした。
「あ……伊織さん、帰ってらっしゃったんですね」
「はい。今帰ってきたところです」
入ってきたのは、秘書の宅間 さんだった。
長身で男らしい短髪で、学生時代アメフト部だったというだけあって、ガッチリと逞しい体つきをしている。
今日は仕事が休みだからか、いつものスーツ姿と違い、シャツとジーンズというシンプルなスタイルで、その手にはスーパーのレジ袋がぶら下がっている。
「買い物行ってきてくれたんですか?」
「はい。社長に頼まれた物を……」
レジ袋を受け取ろうとしたら、「重いですから……」と言って、宅間さんはキッチンに入っていく。
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